定廻り同心は本当に六人だったか

  • 2017.05.17 Wednesday
  • 04:36

 町方同心に関する解説記事には、たいてい「定町廻り六人、臨時廻り六人」と書かれています。

 元南組与力の佐久間長敬著『江戸町奉行事蹟問答』にも「定町廻り 六人」との記述があります。ただし、別の箇所では「定町廻り同心四人」とも述べており、混乱があります。文化・文政のころから文久の初めごろまで、実際に定廻りに任じられた人の数を見るかぎり、定廻りの定員は四人であったと考えるほかありません。

 『万世江戸町鑑』の寛政三年版では、南北両組とも定廻り、臨時廻りは各四人ずつ掲載されています。『増補改正万世町鑑』の文化四年版では、定廻りはどちらの組も四人ですが、臨時廻りは南が十人、北が十一人と大幅に増えています。また、同十年版では、定廻りの四人は変わらず、臨時廻りがやや減って、それまで掲載のなかった隠密廻り(北組が一人、南組は二人 ※1)が登場しています。文政以降は、隠密廻り二人、定廻り四人、臨時廻り六人(ただし増役や加人も含む)の三廻り十二人体制で、一時的に役ごとの増減はあるものの、少なくとも文久の初めごろまでは維持されていることが確認できます。

 「江戸学の父」ともいわれる三田村鳶魚翁や、元与力の佐久間氏がこうだと述べていれば、たかが役人の人数ぐらいで誰も疑問には思わないのでしょうが、佐久間氏が与力に抱入となったのはペリー来航の前年で十七歳のとき。それも(奉行の指示で)三つ多く鯖を読んでいたといいます。三田村翁は明治の生まれ。彼らが実際に見聞したのは、動乱の維新前後であるということも、江戸を理解する上では、忘れてはならないことだと思います。

 

※1)万世系の町鑑では、隠密廻りを御用懸りと表記しているため、注意が必要です(泰平町鑑ではそのまま隠密廻りと表記されています)。なお、享和元(1801)年の『与力同心勤方大概』には、寛政十(1798)年書出しの隠密廻り勤方が記載されています。従って、遅くとも寛政年間には隠密廻りは存在していたはずですが、役目柄、町奉行所の意向で町鑑には掲載できず、掲載許可が出た後もはっきり隠密廻りと載せることはできなかったのかもしれませんね。

 

■文政・天保期における北町奉行所の三廻り体制

南北三廻り同心録(寛政三年〜天保十三年)

 

■文政・天保期に隠密廻り、定廻りを長年勤めた人々(北組)

 神田造酒右衛門は、七十五歳で引退する直前まで、少なくとも十四年以上、隠密廻りを勤めました。それ以前の職歴はよく分かりません。

 田辺平左衛門は、臨時廻りを数年勤めた後、定廻りを十五、六年、隠密廻りを二十二年以上勤めました。安政二年にも隠密廻りを勤めていた記録がありますが、このとき平左衛門は八十二歳でした。この時代を代表する廻り方同心の一人といえるでしょう。

 大八木七兵衛は、臨時廻りを数年勤めた後、定廻りを二十二年以上、隠密廻りを約十年勤めました。天保三年に鼠小僧次郎吉を捕縛した人物としても知られています。まさに北町奉行所の顔ともいうべき存在だったのではないでしょうか。

 豊田磯右衛門は、二十代で臨時廻りとなり、二十五年以上、定廻りを勤めました。隠密廻りにはなりませんでしたが、五十年近い同心生活の大半を廻り方として過ごしました。江戸の治安を守るために捧げた生涯であったといえるかもしれません。


(2017年11月2日更新)

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