廻り方同心の大量処分

  • 2017.10.18 Wednesday
  • 15:28

 北町奉行所隠密廻同心・神田造酒右衛門については、以前の記事で少し触れましたが、造酒右衛門には吉十郎という忰があり、彼も同じ廻り方で臨時廻りを勤めていました(※1)

 文政十一(1828)年ごろには、父から忰への番代があったようで、吉十郎は名を造酒右衛門と改めています。この造酒右衛門が使っていた手先に、三之助という博徒の親分がいました。三之助は人宿(※2)を業とする一方で、自らも先手加役(火附盗賊改)松浦忠右衛門の中間部屋頭を務め、こともあろうに火附盗賊改の松浦屋敷で夜ごと賭場を開いて、大きな利益を上げていました。三之助はそうやって稼いだ金の一部を各方面の役人にあれこれと理由をつけてはばらまいたといいます。それだけに三之助の勢力は大変なもので、あちこちに三之助と気脈を通じた者たちがいましたから、捕まるということもありませんでした。魚心あれば、水心ありということでしょうか。三之助の名は、ついに幕閣の耳にまで届きます。

 やがて三之助は、松浦の相役(※3)で、老中大久保加賀守の内意を受けた矢部彦五郎(後に勘定奉行・南町奉行を勤めた矢部駿河守)の計略にかかり、捕らえられてしまいます。天保二(1831)年五月二十七日、公事方勘定奉行曽我豊後守から三之助以下関係者への判決が下り、三之助は遠島、主人の松浦も御役御免の上、差控となりました。この一件では、三之助や松浦の他にも多くの役人が処分を受けています。三之助を手先に使っていた造酒右衛門もその一人で、『藤岡屋日記』によれば、重追放という重い処分を受けています。その他、北組では定廻りの豊田磯右衛門、南組では定廻り、臨時廻りの合わせて九人が押込の処分を受けました。しかし、造酒右衛門以外はこの後も廻り方同心として勤めています。北からは重追放となる者が出、南は定廻り、臨時廻りのほぼ全員が処分されるという事態を江戸の人々はどのように受け止めたのでしょうか。当時の役人と裏社会との関係が伺われる興味深い事例といえるでしょう。

 

※1)三田村鳶魚翁は、なぜか造酒右衛門を(用部屋の)手附同心であったと述べていますが、上述のとおり造酒右衛門は当時臨時廻りで、用部屋手附であった形跡はありません。先代の造酒右衛門が「御用掛(隠密廻)」であったのを「用部屋手附」と勘違いしたのかもしれません。

※2)奉公人の周旋・仲介を行う業者。口入れ屋

※3)火附盗賊改は先手からの加役(兼職)で、ふつう加役方といえば火附盗賊改をさします。また、一年を通じてこの職にある者を火附盗賊改の本役といい、十月から翌年三月まで火災の多い冬期のみ勤める者を火附盗賊改の加役ともいいました。加役の本役と加役の加役というわけです。ずいぶんややこしいですね。

 

(2020年5月3日加筆修正)

 

北町奉行所臨時廻同心・桑野平九郎

  • 2017.08.14 Monday
  • 22:57

 桑野平九郎は、文政・天保期に臨時廻りを勤めた北組の同心です。抱入(本勤の若同心として採用)は享和二(1802)年、二十三歳のときでした。それから二十年余が過ぎ、町方同心としてのキャリアを積み重ね、ベテランの域にさしかかりつつあった平九郎は、文政六〜九(1823〜26)年頃、臨時廻りの増役となり、文政十一(1828)年には本役へと転じています。五十を目前にしての異動でしたが、奉行所の花形ともいうべき三廻りとしては、必ずしも遅すぎるとはいえません。ただ、少し不自然な点もあります。平九郎はこの時、五番組若同心の二番手でしたが、同じ享和二年抱入(平九郎の九か月後輩)で六つ年下の中村金右衛門(例繰方下役、出座帳掛)がすでに五番組の物書同心に昇進していることです。文化七(1810)年抱入で三十七歳の穂坂甚十郎(下馬廻り)も五番組添物書同心になっていることを考えると、金右衛門の昇進が特別に早かったわけではなく、何らかの理由で平九郎の昇進が停まっていたと考えるほかありません(※1)。平九郎はその後、天保十一年まで臨時廻りを勤めていますが、その間も若同心のままでした。増役時代も含め、十五年以上、臨時廻りを勤めたぐらいですから、仕事ぶりを評価されることはあっても、無能の烙印を押されていたとは思えません。年功序列に厳格な町奉行所の人事としてはイレギュラーなケースといえるでしょう。天保十二(1841)年、桑野平九郎は臨時廻りから定触役(※2)に転じ、同時に五番組の年寄格に昇格します。もしかしたら、廻り方へのこだわりが強く、それが組内での昇進を妨げていたのかもしれません。
 

※1)「天保十一年北町奉行所職員録」をみると、五番組の若同心には寛政十一(1799)年抱入で勤四十二年の杉浦太郎右衛門(赦帳撰要方下役)もいますが、彼は昇進しなかったわけではなく、天保九年までは年寄同心を勤めていました。おそらくは病か年齢的な衰え(あるいは何らかのしくじりがあったのかもしれません)を理由に組役を辞したものと思われます。

※2)定触役 臨時出役の際の触当を担当。多くは年配の若同心が勤めました。臨時触当により、様々な出役に従事する者を定中役といい、こちらは大半が二十代の若同心・見習同心でした。

定廻り同心は本当に六人だったか

  • 2017.05.17 Wednesday
  • 04:36

 町方同心に関する解説記事には、たいてい「定町廻り六人、臨時廻り六人」と書かれています。

 元南組与力の佐久間長敬著『江戸町奉行事蹟問答』にも「定町廻り 六人」との記述があります。ただし、別の箇所では「定町廻り同心四人」とも述べており、混乱があります。文化・文政のころから文久の初めごろまで、実際に定廻りに任じられた人の数を見るかぎり、定廻りの定員は四人であったと考えるほかありません。

 『万世江戸町鑑』の寛政三年版では、南北両組とも定廻り、臨時廻りは各四人ずつ掲載されています。『増補改正万世町鑑』の文化四年版では、定廻りはどちらの組も四人ですが、臨時廻りは南が十人、北が十一人と大幅に増えています。また、同十年版では、定廻りの四人は変わらず、臨時廻りがやや減って、それまで掲載のなかった隠密廻り(北組が一人、南組は二人 ※1)が登場しています。文政以降は、隠密廻り二人、定廻り四人、臨時廻り六人(ただし増役や加人も含む)の三廻り十二人体制で、一時的に役ごとの増減はあるものの、少なくとも文久の初めごろまでは維持されていることが確認できます。

 「江戸学の父」ともいわれる三田村鳶魚翁や、元与力の佐久間氏がこうだと述べていれば、たかが役人の人数ぐらいで誰も疑問には思わないのでしょうが、佐久間氏が与力に抱入となったのはペリー来航の前年で十七歳のとき。それも(奉行の指示で)三つ多く鯖を読んでいたといいます。三田村翁は明治の生まれ。彼らが実際に見聞したのは、動乱の維新前後であるということも、江戸を理解する上では、忘れてはならないことだと思います。

 

※1)万世系の町鑑では、隠密廻りを御用懸りと表記しているため、注意が必要です(泰平町鑑ではそのまま隠密廻りと表記されています)。なお、享和元(1801)年の『与力同心勤方大概』には、寛政十(1798)年書出しの隠密廻り勤方が記載されています。従って、遅くとも寛政年間には隠密廻りは存在していたはずですが、役目柄、町奉行所の意向で町鑑には掲載できず、掲載許可が出た後もはっきり隠密廻りと載せることはできなかったのかもしれませんね。

 

■文政・天保期における北町奉行所の三廻り体制

南北三廻り同心録(寛政三年〜天保十三年)

 

■文政・天保期に隠密廻り、定廻りを長年勤めた人々(北組)

 神田造酒右衛門は、七十五歳で引退する直前まで、少なくとも十四年以上、隠密廻りを勤めました。それ以前の職歴はよく分かりません。

 田辺平左衛門は、臨時廻りを数年勤めた後、定廻りを十五、六年、隠密廻りを二十二年以上勤めました。安政二年にも隠密廻りを勤めていた記録がありますが、このとき平左衛門は八十二歳でした。この時代を代表する廻り方同心の一人といえるでしょう。

 大八木七兵衛は、臨時廻りを数年勤めた後、定廻りを二十二年以上、隠密廻りを約十年勤めました。天保三年に鼠小僧次郎吉を捕縛した人物としても知られています。まさに北町奉行所の顔ともいうべき存在だったのではないでしょうか。

 豊田磯右衛門は、二十代で臨時廻りとなり、二十五年以上、定廻りを勤めました。隠密廻りにはなりませんでしたが、五十年近い同心生活の大半を廻り方として過ごしました。江戸の治安を守るために捧げた生涯であったといえるかもしれません。


(2017年11月2日更新)

隠密廻りのおじいちゃんたち

  • 2017.05.15 Monday
  • 23:48

 時代劇に出てくる隠密廻りといえば、さながら現代の潜入捜査官といったところでしょうか。決死の覚悟で悪の組織に潜り込み、犯罪の証拠を探り出すのが彼らの役目です。そして、たいていは正体を暴かれ、命がけで入手した証拠を主人公に託して、息絶えるというのがお決まりの役回りではないでしょうか。では、実際の隠密廻りはどうだったのでしょう。

 

 隠密廻りは、三廻り(隠密廻り・定廻り・臨時廻り)の筆頭格で、定廻りや臨時廻りを長年勤めた最長老クラスの人たちのポストでした。文政九年から天保十三年までの十七年間で、北組の隠密廻りに就いた六名(延べ三十四名)の平均年齢は約六十三歳で、全員が年寄役同心です。人生五十年が現実だったころの六十代ですから、まさに長老イメージそのものであったろうと思います。

 

 元南組与力の佐久間長敬は、隠密廻りについて「同心二人。奉行の手に属し、秘密探索を掌り捕亡を兼、重き役柄のものなり」。「何事に依らず聴込たることは善悪ともに奉行に告げ、奉行の耳目と成りて働くなり。捕縛すべき罪悪と認るものは奉行へ告る迄もなく、時機をうつさず町廻りと謀り捕縛し、忠孝美事に至まで奉行へ告るなり」と述べています(※1)。『古事類苑』は、隠密廻りの勤め方について、『市尹秘録』から次のように引いています。

 

隠密廻り勤方之事
寛政十午年書出
一 御頭様善悪幷御家中如何わしき取沙汰承り及び候えば申上げ候事、(中略)
一 武家方町方は勿論、遠国等之儀にても何事に依らず御当地にて風説強く申し触し候儀は、真偽に拘らず申上げ候、尤町方より訴え出候儀は申上げず候、
一 三芝居見廻り、衣装等御法度之品相用い候か、尚又如何わしき新狂言に取組仕り候はば、早速申上げ、御差図次第取計い候事、
一 新吉原町燈籠、俄、花植等之節、其の外平日も折々見廻り候事、
一 忠孝者、幷長寿之者承り及び候えば申上げ候事、(中略)

 

 テレビもラジオも新聞もなかった時代、情報は足で稼ぐしかありませんでした。隠密廻りのおじいちゃんたちは、派手な大立ち回りや、悪の組織への潜入捜査などはしなかったかもしれませんが、江戸の町を知り尽くした彼らでなければ務まらない、町奉行の目や耳として、政策決定のプロセスに小さからぬ影響を与えていたことでしょう。また、お頭(奉行)の家来(公用人や目安方)や与力たちへのけん制役として、内部統制の要でもあり、非常に権威ある役目だったそうです。

 

 ところで、忠孝の者を報告するのは、いうまでもなく彼らを褒賞するためですが、あわせて長寿の者も報告させているところに、社会が高齢者をいかに大切に扱っていたかが伺われます。七十歳以上の老人が五人に一人を占め、やがては四人に一人の時代も訪れようという当節では、考えにくいことかもしれませんね。最近では、電車内で「席を譲れ」といった老人が叩かれるのだとか。根っこに人口問題があるだけに、世相の変化だけでは語り尽くせない難しさがあります。長寿が単純に喜ばしいことではなくなってしまったことも、今日の閉塞感と無縁ではないように思います。

 

※1)佐久間長敬著、南和男校注『江戸町奉行事蹟問答』、東洋書院

 

(2017年11月2日訂正)

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