町方同心の給与(暫定版)

  • 2020.08.26 Wednesday
  • 16:08

 「町方与力同心の給与:与力篇(前)」を書いてから、早くも二年半が経ってしまいました、

 続編を書くため、一つひとつ史料に当たる気力がなかなか涌かず、先延ばしにしていたところ、2018年の暮れに倒れてしまい、以来半身麻痺のため、集中力の低下と著しい入力効率の悪化でどうにも根気がつづきません。とはいえ、アクセスログを見ると、「町方与力同心の給与」に関する記事を目当てに来られる方がもっとも多く、このまま続きを書かないのも申し訳ない気がしています。そこで手間のかかる作業は省いて、町方同心の給与について、簡単にまとめてみたのが本記事になります。

 

 「天保年間諸役大概順」によれば、「諸組同心」は三十俵三人扶持より十五俵二人扶持迄となっていますが、町方同心は本勤ならば、三十俵二人扶持が原則で、「組役:組与力同心の階級」でも触れたように、部屋住みの増人同心の場合には、二十俵二人扶持で親との同居になるため、拝領町屋敷はありませんでした。

 これに役料込みの総額は南北両組で若干の差がありました。文政年間ごろの姓名書をみると、北組では役料込みの三十四俵宛が十五人、同じく三十三俵宛が五人、役料なしの本勤が三十俵宛で八十人、増人の二十俵宛が二十人となっています、

 

■画像1)北組同心の切米高(北組姓名書。国会図書館デジタルコレクション)

北組同心給与

 

 一方、南組では役料込みが北の二十人よりも多く、高も三段階に分かれています。すなわち、三十五俵宛が二十人、三十三俵宛が五人、三十一俵宛が七人で、役料なしの本勤が六十八人、増人は南北で変わりません。

 

■画像2)南組同心の切米高(南組姓名書。国会図書館デジタルコレクション)

南組同心給与

 

 切米は五十俵、あるいはそれ以上もらっていた人の記録もありますが、扶持米に関しては二人扶持以外の人を見たことがありません。一人扶持は五俵で換算することになっていますから、町方組同心に限っていえば、扶持米は二人扶持でおよそ十俵と計算しておけばいいかと思います。

 

 ついでに、拝領屋敷について、もう少し詳しく触れておきます。町方与力同心の拝領屋敷といえば、八丁堀組屋敷図に関する研究で知られる都市計画研究家の中村静夫さんによる分析にもあるように、組与力同心の大半が拝領屋敷の一部または全部を他人に貸して、副業(不動産経営)としていたことはつとに知られています。武家地たる与力の拝領屋敷には、町人をあからさまに住まわせるわけにはいきません。そこで儒者や医者、検校や手習いの師匠、それに自分の拝領町屋敷をすべて他人に貸してしまった同心など、武家地にふさわしい住人を選んで貸していました。八丁堀の七不思議のひとつ、「儒者、医者、犬の糞」という言葉のいわれがわかろうというものです。

 

■外縁部を町人地であることを示すグレーで囲み、武家地と町人地の混在を表現している江戸切絵図(八町堀細見絵図。国会図書館デジタルコレクション)

八丁堀の拝領町屋敷

 

 では、組同心の場合にはどうだったのでしょうか。じつは組同心の拝領「町」屋敷は、武家地たる与力の拝領屋敷とは大きく異なり、本人の住居こそ武家地として扱われるものの、拝領町屋敷全体は町人地とされ、歴とした町名(亀島町、北島町、岡崎町)もあり、町名主の支配も受け、町人に貸すことが許されていました。そこで大半の組同心は百坪弱の拝領町屋敷に、本人は二、三十坪ほどの屋敷を構え、表通りに面したところは商人に貸し、残りの土地には貸し長屋を建てて、町人相手に賃貸していたわけです。

 なかには、拝領町屋敷をすべて他人に貸してしまって、本人は他の組与力同心の敷地内に賃借する人もいました。中村主水のご近所さんが貧乏長屋の住人ばかりだったとしたら、せんとりつももう少し世間体を気にせずに、やさしくなれたかもしれませんね。

 

 与力株は千両、同心株で二百両なんて話もありますが、実際のところ、町方同心のお財布事情はどうだったのでしょうか、本勤の同心で三十俵二人扶持をまずは四十俵と換算し、十俵を三両から三両二分とすると、金にして年間およそ十二両から十四両ほどの基本収入があるということになります。これに諸手当や、各筋からの付届なども加味すると、拝領町屋敷があって、住むところに困らないばかりか、副収入(賃貸料)までついてくるわけですから、裕福とはいえないまでも、決して悪くはない暮らしぶりだったのではないかと思います。

 では、彼らの年収を今日の貨幣価値に置き換えるといかほどかという問いについては、当時の貨幣価値を、社会構造や身分制度、経済システムや人の価値観など、何から何までが異なる現代の貨幣価値と比較することはまったくの無意味であるばかりか、むしろミスリードを招き、弊害の方が大きく、おすすめはしません。それでもなお、ということであれば、一両=二十万円ほどで計算してみると、割とおさまりのいい数字になるかもしれません。

 

(2020年8月26日公開)

 

組役:組与力同心の階級

  • 2020.07.04 Saturday
  • 03:00

1. 組与力同心の員数

 寛永八(1631)年以後、江戸の町奉行は一時(元禄十五~享保四年)三人に増えたことはあるものの、享保四(1719)年に中町奉行の坪内能登守(定鑑)が辞職し、後任が置かれないまま二人に復して以降はそれが幕末まで続きました。

 また、町奉行が南北両員に復した際に、町方組与力同心の員数も、各組与力二十五騎同心百人宛となりました。どうもこのときに、町奉行の家来二人(南北両組で計四人)の名を組与力二十五騎のうちに含めて書き出す内与力の運用も始まったようです(※1)

 延享二(1745)年には、寺社の門前町が町奉行支配となり、これを機に「用務繁激」を理由として、同心の定員増(各組百二十人宛)が認められます。但し、増員となる二十人はすべて従来の組同心の部屋住みからの採用ということになりました。これを増人同心といいます。つまり組同心の定員は各組百人宛から二十人宛増えはしましたが、同心株で数えれば、百株のままということになります。

 定員に関していえば、これが与力と同心の違いでした(同心は延享二年以降、部屋住みのうち、適齢期で十分に働ける一部の者=二十人が増人同心として員数内に数えられるようになったわけです)

 本ブログでは、特に断らない限り、この延享二年体制(つまり町奉行が南北で二名、組与力が内与力を除いて各組二十三騎宛、組同心が部屋住みの増人同心を含めて各組百二十人宛)を前提としています。なお、増人同心の俸禄は本勤の若同心(三十俵二人扶持)より少なく、二十俵二人扶持で、拝領屋敷も部屋住みが前提となるため、ありませんでした、

 

 

2. 組与力の階級

 南北両組には、壱番から五番までの番組があり、組与力同心はそのいずれかに属していました。その各番組を統括していたのが同心支配役与力で、番組ごとに一人宛、南北各組に五人宛いて、支配与力あるいは筆頭与力などとも呼ばれていたようです。また、他にも次席の与力で役付の扱いを受け、役料を支給されるケースもありました。

 支配与力以外は、員数(各組二十五騎)内の本勤与力(各与力家の当主)と員数外の見習与力(部屋住み)があり、勤務年数に応じて席順(序列)が定まっていました。

 員数外の見習与力には、従来の見習与力の外、業務量の増大に伴う人員不足の折から宿直勤務もこなせるよう、本勤並に資格が見直され、手当も増額(※2)された本勤並与力が天保九(1838)年に新設されています。また、有給の見習与力が七人までだったためか、無給の見習(無足見習)もいたようです。

 

 

3. 組同心の階級

 組同心の階級は概ね、年寄同心、物書同心、若(平)同心、見習同心の四つに分けることができます。組同心もまた、勤務年数に応じて席順(序列)が定まっていました。

 

 年寄同心には本役以外に、増年寄、年寄助、年寄格などの階級も置かれることがありました。

 物書同心には本役以外に、物書格、添物書、添物書格、添物書助などの階級も置かれることがありました。

 見習同心には、有給(年三両。十一人まで)の見習同心の外、無給の見習(無足見習)もいました。

 

 物書同心以上の特定の役付同心には役料が支給されていました(但し、南北で役料の額や人数は異なっていました)

 なお、幕末頃には年寄同心の上に、同心世話役という階級も置かれたようで、北組の隠密廻・大八木七兵衛や同じく北の隠密廻の田辺平左衛門、南組の隠密廻で鳥居甲斐守に連座して失脚した小倉朝五郎や、同じく南の隠密廻で後に与力にまで取り立てられた小林藤太郎などが任じられています。彼らの顔ぶれを見る限り、同心役ではいかに三廻り、とりわけ隠密廻に力と権威があったかが察せられます。

 

 

※1)佐久間長敬著『江戸町奉行事績問答』、東洋書院

※2)従来の見習与力が年に銀十枚の手当だったのに対し、本勤並与力の手当は年二十両に増額されました。なお銀十枚は、銀43匁/枚×10枚=銀60匁/両×7両+10匁になるとして、金七両と三朱に少し足りないぐらいでしょうか。

 

 

定中役

  • 2020.05.19 Tuesday
  • 01:00

 町奉行所の分掌の一つに定中役という掛役がありました。

 定中役とはどんなお役目だったのか。三田村鳶魚は『江戸雑話』のなかで定中役について、「同心十人、臨時触当により諸般の出役に従事す」と書いています。いわゆる総務系の何でも屋だったようですが、番方同心との違いがよく分かりません。定中役の触当を行う定触役という掛役もあり、こちらは「同心三人」となっています。番方世話役と同じようなものでしょうか。

 

 どうやら彼らは様々な臨時出役に駆り出される若手の同心たちで、役所内でも比較的軽く扱われ、便利使いされる存在だったものと思われます。しかし、わざわざ番方同心とは別に敢えて「掛役」として設ける必要があったのでしょうか。

 まだ役目(掛役)もつかない、駆け出しの時代に、若手の若同心や見習同心がやらされるという番方同心との違いはどこにあったのでしょうか。じつは当番方の最大の特徴はその勤務形態にあります。

 

 宿直ありで、二十四時間以上の連続勤務となる当番方は、思いのほか大変な仕事で、与力の場合にはもっともキャリアが浅く、掛役が無いとみなされる若手の与力たちがひっぱりだされ、ロウ・ティーンの当番与力が真夜中にいい年をしたおじちゃん・おばちゃんたちの駆け込み訴えを聴いたり、彼らにお説教したり、喧嘩の仲裁までしていたといいます。

 ちょっと不安な気持ちにもなりますが、そこはよくできたもので、同じ番組から、物書同心以上の係長・主任クラスのベテランが当番同心として、当番与力を補佐していました。お守役といったところですね。当番与力と当番同心は、壱番から五番までの番組から順番で出て、それなりに責任ある役目を務めますが、主に雑用や力仕事をやらされる駆け出しの同心たちは番組とは別に三番編成となっていて、交替で出勤していました。それが番方同心です。

 

 番方同心はそうした特殊な勤務形態のため、他の掛役との兼帯や交替の調整なども面倒だったろうと思います。そこで、日中は常に組屋敷などで待機し、いつでも出役できる定中役のような存在は使い勝手もよかったろうと思います。また、無役の番方から日勤の掛役へとステップアップしていく過程ではワン・クッションにもなり、敢えて掛役として置く意味もあったのでしょう。

 

町方与力同心の給与:与力篇(前)

  • 2017.12.12 Tuesday
  • 06:20

 町方与力の給与は地方(じかた。土地=知行所・給知による給与方式)ではありましたが、誰某に何処といったような銘々の知行分はなく、一人二百石宛五十人で一万石の給知を上総下総両国のうちに、大繩(一括)で与えられていました。
 享保四(1719)年、中町奉行の坪内能登守が御役御免になると、後任は置かれず、町奉行は従前の二人制に復し、与力の定員も南北各組二十五騎(両組あわせて五十騎)となって幕末まで続きます。文政十一(1828)年の『北組与力同心姓名書』(旧幕府引継書)から、北組与力二十五騎の給知高五千石の内訳を見てみましょう。

 

『北組与力同心姓名書』(旧幕府引継書)
 『北組与力同心姓名書』(旧幕府引継書。
 国立国会図書館デジタルコレクションより)

 組与力給地高
一 五千石
(略)

四千三百八十石  与力二十三人収納高
百五十石     支配五人役料
四百石      用人目安方収納高
七十石      残知
(後略)

 

 与力の定員は二十五騎であるのに、二十三人収納高とあるのは、以前の記事でも触れたとおり、二十五騎のうち二騎を削って、町奉行の公用人二人の名を組与力の内に書き出し、その高や拝領屋敷は町奉行が受け取って、内与力(奉行の家来である公用人と目安方)の給料に充てていたからです(※1)。つまり組与力の数は表向きは二十五人でも、実際には二十三人だったわけです。


 次に支配五人役料とは、五人の同心支配役(支配与力、筆頭与力ともいいます)の役料で、一人三十石宛五人で百五十石が支給されていました。与力の高は一人二百石宛の建前ですが、実際には均等ではなく、町奉行の裁量で百五十石〜二百石のあいだで差がつけられていました。この差額から、支配与力五人の役料も出ていたのです。
 用人目安方収納高の四百石は上述した内与力の給料分で、公用人三人が百石宛、目安方二人が五十石宛で五人あわせて四百石の計算となります。
 最後に残知七十石の行方ですが、恐らくは知行所の管理や収税等、領主として必要な業務に係る諸経費に充てられていたのではないかと思われます。

 

 さて、文政十一年に、役高二百石をもらっていた北組与力は十四人、高百九十石以下の与力は九人いました(最低は高百六十石の三人)。この年の七月に新規抱入となったばかりの米倉作次郎・三十八歳や、同じく二月抱入の高橋金五郎・十七歳は最高の高二百石でした。その一方で、寛政十一(1799)年抱入の五番組支配与力松浦伴右衛門・五十五歳や、文化二(1805)年抱入の壱番組支配与力谷村猪十郎・四十八歳は最低の高百六十石でした(ただし、二人とも支配与力であったため、本俸とは別に役料三十石をもらっていました)。寛政二(1790)年抱入の最高齢・最古参与力で、年番も勤める弐番組支配与力・嶋喜太郎・六十五歳は高百七十石でした。新米与力の作次郎や金五郎が二百石なのは、先代の米倉緒右衛門や高橋八郎右衛門が二百石であったからに他なりません。抱席の与力に家禄はありませんでしたが、町方与力の職とともに役高も親から子へと実質的に世襲されていたのです。
 ついでに、同じ文政十一年の南組与力についても、『南姓名書』(旧幕府引継書)で見ておきましょう。高二百石をもらっていたのは十三人、高百九十石以下が十人いました(最低は高百五十石の一人)。高二百石には前年抱入の佐野伴蔵・三十二歳や、文政六(1823)年抱入の稲沢弥一兵衛・二十一歳、吉田忠兵衛・二十四歳がいる一方で、最低の高百五十石は文化五(1808)年抱入の中田与一右衛門・四十歳でした。与一右衛門は弐番組の次席与力で、奉行所の花形ともうべき吟味方に勤めていました。寛政六(1794)年抱入で年番を勤め、吟味方の筆頭でもあった三番組支配与力仁杉八右衛門・六十歳はこの時、高百七十石でした。翌文政十二年、八右衛門から忰五郎八郎(後の八右衛門)に番代しますが、後に二代目八右衛門は数度の加増を重ね、嘉永七(1854)年には高二百石になっています。

 

 駆け出しの与力だからといって、禄が少ないということはなく、要職にあるベテラン与力だからといって、禄が多いとも限りませんでした。五人の支配与力に昇りつめれば、役料三十石がつくものの、上述の例のように役料込でも新米与力の高に及ばないこともありました。給地高五千石の総枠がある中で、基本的には番代をしても役高が下がらないのですから、加増しようにもできるわけがありません。それでも。仁杉八右衛門のように多年の精勤を賞されて、加増されることが稀にありました。不正やしくじりなどで処分を受け、改易となったり、小普請入りや先手組等への左遷となるケースが稀にあり、その明跡へ小普請その他から入人(転属)となったり、与力の部屋住みが分家を興して、新規抱入(後述)となる場合がありました。この時に町奉行の裁量で役高を新たに定めることになっており、百五十石程度になることが多かったといいます。この時の前任者と新任者の役高の差(減)額分が加増の原資となっていたわけです。滅多に昇給(加増)がないのもやむをえなかったというべきでしょう。それにしても、加増は本人の働きが認められた結果とはいえ、処分を受けた者が多い組ほど、昇給のチャンスも多かったというのは皮肉というほかありませんね。

 

 終わりに、与力の部屋住みが分家を興して、新規抱入となった事例を一つ紹介しておきたいと思います。

 天保十五(1844)年二月二十五日、南町奉行鳥居甲斐守と北町奉行鍋島内匠頭の進達により、内与力が廃止され、その代わりに与力の部屋住みから南北各組二人宛両組計四人を高百五十石で新規抱入とすることになりました。このとき、分家を立てて新規抱入となったのが北組は五番組支配与力谷村源左衛門の忰栄五郎・三十一歳、四番組支配与力東條八太夫の忰八太郎・二十四歳、南組は三番組支配与力佐久間彦太夫の忰健三郎・三十六歳、壱番組支配与力中村八郎左衛門の忰次郎八・二十八歳の四人でした。内与力の給与四百石(両組で八百石)が削減され、分家を興した与力たちには三百石(同六百石)が与えられたわけですから、各組で百石宛が浮いた計算になります。

 しかし、この七ヵ月後には絶大な権勢を奮っていた鳥居甲斐守が失脚し、一度は大目付に棚上げされていた鳥居の政敵・遠山左衛門尉(遠山の金さん)が後任の南町奉行として返り咲きます。その結果、内与力も再び復活することになりますが、一度増やした与力を容易く切ることもできず、関係者はさぞや頭を痛めたことでしょう。元南組与力で、江戸の町奉行所に関する非常に貴重な書『江戸町奉行事績問答』を後世に残した佐久間長敬は「此事は与力の身分に取りては幸不幸を蒙るものありて、迷惑ものなりしとか」(※2)と述べていますが、これは組与力たちの本音であったろうと思います。

 このとき、新たに分家を興した与力の一人・佐久間健三郎は、鳥居甲斐守の失脚から約一年後の弘化二(1845)年十月三日、鳥居の不正(でっち上げによる冤罪事件)に関わったとして罷免されています。健三郎は、このブログにもしばしば名前の出てくる佐久間長敬の実父です。長敬は、まだ弥太吉と名乗っていた嘉永三年、分家を興した実父にかわって、南町奉行所の無足見習(無給の見習与力)となりました。弥太吉は当時十二歳でしたが、奉行(遠山左衛門尉)から「十五歳と心得るべし」といわれ、十五歳として勤務しました(※3)。二年後の嘉永五年七月二十二日、弥太吉の祖父彦太夫(七十四歳。三番組支配与力、年番)が病気のため、与力を辞めると、弥太吉は祖父の暇跡に抱入となります。当然ながら、高も祖父と同じ二百石でした。もし健三郎が罷免されず、本家分家が並び立っていれば、四十四歳の父が高百五十石の分家当主、十七歳(実年齢は十四歳)の忰が高二百石の本家当主となっているはずでした。

 

※1)奉行所には内与力(公用人と目安方)五人のほかにも、右筆役三人、玄関取次役三人、門番足軽二人など、町奉行の家来が十人以上勤めていました(佐久間長敬著『江戸町奉行事績問答』、東洋書院)

※2)前掲書

※3)南和男氏の「佐久間長敬の経歴」(前掲書「解題」)によります。なお、南氏の記事ではこれを嘉永三年四月としていますが、旧幕府引継書の『與力同心前録』はこれを同年正月二十八日としています。

 

(2018年7月11日加筆訂正)

町奉行所の三大分課

  • 2017.09.01 Friday
  • 00:19

 どのような役所や企業にも、大きな権限をもち、組織内で権勢を振るう、有力な部署があります。現代の役所なら大臣官房や財務省の主計局、企業なら社長室や経営企画室、人事部といったところがそうでしょうか。江戸の町奉行所にも、そんな有力な分課が三つありました。

 

1.用部屋

 用部屋には組与力は配置されず、かわりに奉行の家来である内与力(公用人・目安方)が万事を取り仕切っていました。いわば町奉行官房とでもいうべき部署で、公用人の指揮の下、十人ほどの手附同心が刑事断案の調査起稿(※1)を行っていました。また奉行の政策を推進する中心的な役割も担っていたものと思われます。

 

 寛政八(1796)年三月、当時の南町奉行坂部能登守の進達により、内与力の制度が廃止され、かわりに旗本役の町奉行支配留役(翌四月、町奉行吟味物調役に改称)が置かれました。しかし、坂部自身が半年後には西丸留守居へ役替えとなり、内与力廃止の件もうやむやとなってしまったようです。それでも、この制度は文化八(1811)年八月、町奉行吟味物調役が廃止となり、改めて内与力が再置されるまで十五年間もつづきます。

 南町奉行所の前にあった腰掛茶屋(※2)が発行する『江戸町方与力同心役付』(享和三(1803)年。※3)には、公用人・目安方の部下として用部屋書役が南北各三人ずつ、吟味物調役の部下として調方手附同心各七人ずつが記載されています。従来、十人ほどいた用部屋手附同心を公用方と調方の二つに分けて再配置していたことがわかります。内与力の廃止とはいっても、公用人・目安方の仕事(町奉行の秘書的業務)はそのまま残っており、彼らが解雇されたわけではありませんでした。ただ公用人のうち、二人の名前を組与力として書き出し、組与力二騎分の俸禄を町奉行が受け取って、公用人たちに再分配するという運用が一時的に廃止されたわけです。坂部の役替え後はこれもうやむやとなって、結局元の運用に戻ってしまったようですが、吟味物調役が新たに配置された以上は、建前として内与力は廃止ということにしておく必要があったのでしょう。

 

 吟味物調役といえば、仙谷騒動で名を馳せた川路聖謨(後に勘定奉行などの要職を歴任)の寺社奉行吟味物調役が有名ですが、専門の職員をもたない、大名役の寺社奉行と違って、町奉行所には代々その職を受け継ぐ組与力同心たちがいます。奉行子飼いの内与力は、町方与力たちの生活を脅かし(※4)、仕事にも口を出す煙たい存在であったに違いなく、最初は坂部の改革にも内心快哉を叫んだかもしれません。しかし、内与力のかわりにやってきた吟味物調役は、評定所留役や徒目付出身の旗本で、叩き上げの実務家でした。その上、内与力だけでなく、吟味方与力とも職分が重なっていたわけですから、町方与力たちにとっては、内与力以上にうるさく、やりづらい相手であったに違いありません。そんなことも後々の町奉行吟味物調役廃止・内与力復活につながっていったのではないでしょうか。

 

 

2.年番方

 総務(奉行所の営繕等)、人事(同心の任免等)、給与(組与力の采地や組屋敷の管理等)、経理などを掌る、いわば奉行所の心臓部ともいうべき部署でした。町方の組与力同心は五番編成で、それぞれの番組の筆頭与力を同心支配役と称し、番組内を統括していましたが、その五人が一年ごとに持ち回りで勤めたことから、年番と呼ばれるようになったといわれています。年番与力の下には、下役同心や書物方が詰める年番部屋だけではなく、様々な業務(出役)に駆り出される当番方も属していましたから、組与力同心の役半数(※5)は年番与力の部下であったといえます。年番与力は、町奉行に次ぐナンバー2のポジジョンで、与力の中でも最も重要なポストとされていました。年番与力は、町方組与力の出世の最終到達点であったといえます。
 

 元南組与力の蜂屋氏が町方与力時代に筆写した「諸心得留」(※6)によれば、享保元(1716)年に初めて置かれた年番は最初支配与力五人による一年ごとの持ち回りであったものの、宝暦八(1758)年からは初めて重年で任じられるようになり、天明七(1787)年には仁杉幸左衛門と中村又蔵が任じられ、初めて二人となりました。寛政三(1791)年の町鑑では南北どちらも年番が二人となっていることが確認できます。また、年番は原則支配与力が任じられていましたが、持ち回りでなくなって以降は、支配与力以外から任命されるケースも見られます。

 幕末には年番が三人に増えたといいます。天保の終わりごろ、北の松浦栄之助が年番手伝、南の仁杉八右衛門が年番助として、弘化二年には南の中村八郎左衛門が当分役として、三人目の年番に任じられたこともありますが、これは一時的な人事運用だったようです。安政二(1855)年の町鑑では北、文久元(1861)年の町鑑では南北ともに三人の年番が記載されています。ペリーの来航以降、世情騒然となる中で町奉行所の所管業務もいよいよ複雑多岐にわたり、業務の錯綜も甚だしくなって、組与力同心たちの司令塔ともいうべき年番を増員せざるをえなかったということでしょうか。

 

 

3.吟味方

 聴訟断獄の事を掌り(※7)、奉行所内でも最大の人員を要する花形部署でした。職務柄、大名家や有力商人たちからの付届も多く、大半の中堅・若手与力たちにとっては、憧れの的でもあり、吟味方に配属されることが一つの目標でもあったことでしょう。吟味方にも下役同心とは別に書物役の同心がおり、年番方同様、若手の若同心・見習同心が勤めていました。

 

 幕末に町奉行や大目付を歴任した山口駿河守(直毅)は、「与力は、吟味方と当番与力と二つに分かれておりました」(※8)という言い方をしています。与力の分掌には、本所見廻りや養生所見廻り、牢屋見廻りなど、他にも多数あるのに、いささか乱暴な気がしないでもありません。しかし、それらの役掛は外役(※9)といって、奉行所に日々出勤することはなく、多くは他の公的機関やその職員の取締りなどを主な任務にしていたため、町奉行所の主要業務を担うと考えられていた当番方や吟味方とは区別されていたのかもしれません(※10)

 ここでいう当番与力には、当番方のトップである年番与力も含まれていると考えていいと思います(※11)。組与力同心の約半数を擁する当番方に対し、吟味方は町奉行本来の任務ともいうべき公事吟味を担当する分課で、吟味方をサポートする例繰方や赦帳撰要方も、吟味方を中心とする一つのグループ(部門)とみられていたのではないでしょうか(吟味方は人数も多く、その半数は熟練の実力者で占められているのに対し、例繰方や赦帳撰要方には比較的若手の与力が配属されています)

 町奉行所の役所部分は中央部に公用人の指揮する用部屋があり、それより奥(西側)には町奉行が政務を行う表居間や、主要な会議室(内寄合座敷、内座之間)などがあり、表(東側)の北部分には当番方の各詰所(与力番所、同心番所、年番部屋、若同心詰所など)、南側には吟味方の主導する公事吟味に関する施設(裁許所や詮議所と白洲、例繰方詰所、赦帳撰要方詰所、仮牢、公事人溜りなど)で占められていました。吟味方は、単なる町奉行所の一分課ではなく、町奉行所の機能を二分する中核部門として位置づけられていたからこそ、山口の発言があったのではないでしょうか。

 

※1)三田村玄龍著「八丁堀の與力同心」、『江戸雑話』、春陽堂

※2)江戸時代、町奉行所などの役所の前には関係者の待合所として、腰掛が置かれていることが多く、町奉行所前の腰掛には、湯茶や筆紙・草履などの提供サービスを行う茶屋があり、町奉行所の雑用などもこなしていました。

※3)千代田区教育委員会編『原胤昭旧蔵資料調査報告書(3)』

※4)町方与力の定員は各組二十五騎でしたが、そのうちの二騎(南北両組で四騎)を削り、奉行の家来である内与力の俸禄に充てていました。坂部能登守や天保改革期の町奉行鳥居甲斐守と鍋島内匠頭は、これを奉行の不正と断じて、幕閣に進達し、内与力を廃止しましたが、いずれも当人たちが辞めると、旧に復したといわれています。

※5)当番方の人員は次のとおりです。有給の見習与力七人を含む与力三十人のうち、年番与力二人(幕末には三人)、宿直与力が十人以上(五つの番組から役掛のない若手の与力が二人ずつ交代で当番与力を勤める)。二十人の増人同心を含む同心百二十人のうち、年番下役および同書物方があわせて約十人、当番同心が三十人(五つの番組から、年寄同心が三人ずつ、物書同心が三人ずつ交代で当番同心を勤める)、番方世話役三人、番方同心三十人(番方世話役の下にそれぞれ役掛のない若手の若同心が約十人ずつ交代で勤める)

※6)原胤昭旧蔵資料調査報告書(3)

※7)佐久間長敬著、南和男校注『江戸町奉行事蹟問答』、東洋書院

※8)旧事諮問会編『旧事諮問録(上)』、岩波文庫

※9)外役に対し、日々役所に出勤する年番方や吟味方などの役掛を内役といいました(佐久間長敬、前掲書)

※10)元南組与力の佐久間長敬(前掲書)は「重立ちたることは年番方・吟味方与力同心の内にて兼勤す」とも述べています。

※11)佐久間(同前)は、「日々当番与力五人、内弐人宿直、三人年番と唱」と述べており、当番方の五人の与力の内、三人は日勤の年番与力であったことが分かります。

 

(2019年7月30日加筆修正)

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