遠山の金さんの実像

  • 2018.09.23 Sunday
  • 11:39

 天保十二(1841)年八月十八日、江戸城内の吹上で三奉行(※1)による公事上聴(※2)が行われました。この時、北町奉行であった遠山(の金さん)が担当した裁判は、奉行所の編纂した記録(※3)によれば、

 

 ・養子対談違変出入

 ・弟子身分引渡出入

 

という二件の公事出入(民事裁判)でした。

 その二日後(※4)、将軍家慶から遠山への賞誉の沙汰があり、その写しが『江戸町奉行事蹟問答』(※5)に載っています。

 

  天保十年八月二十二日[原注]殿中御沙汰書写
  町奉行遠山左衛門尉景元、今般於吹上公事上聴の節、吟味の躰、利害の趣等行届候、

  兼而吟味巧者ニ相捌き候由被及聞召候処、今般之振舞格別之儀、可為奉行者左も可有之事ニ候旨、越前守殿を以御沙汰ニ被及候事、

  [原注]天保十二年八月十九日のことなり

 

 時服を下された「だけ」の他の三奉行たちとは違って、遠山唯一人が将軍から「奉行たるべき者はそのようにあるべきだ」との賞賛を賜ったのですから、我らが金さんも大いに面目を施したことでしょう。老中首座水野越前守(忠邦)を通じて、遠山への沙汰が伝えられたことを考えると、あるいは将軍家慶には単に遠山の裁判に感心したというだけではなく、このことをきっかけに彼を強く後押しする気持ちがあったのではないかという気もします。

 

 町奉行は大目付や勘定奉行と並ぶ役方トップの栄職でしたが、能力があれば小禄の身からでも成り上がるケースが見られた勘定奉行と違って、そのほとんどがエリート旗本たる両番筋(※6)の出身者で占められていました。遠山家も両番筋ではあったものの、金さんの経歴が他の町奉行たちと異なっているのは、彼が番入することなく、中奥から表の役方に転じ、町奉行まで昇っているということです。中奥とは、幕府の公式行事が行われたり、諸役人が詰める「表」ではなく、将軍の妻子が暮らす「大奥」でもなく、将軍が日常起居し、政務を執る、将軍の生活エリアでした。金さんは時代劇や講談による、下情に通じた刺青奉行のイメージからは意外に思われるかもしれませんが、側衆や小姓たちとともに将軍(または将軍世子)の側近くに仕え、親類との交際すらも慎まなければならないとされる将軍世子の昵近衆だったのです。

 

 遠山はまだ部屋住みだった文政八(1825)年、三十三歳のときに西丸小納戸として召し出されると、忽ち頭角を現し、天保三(1832)年には同頭取格となり、天保六年までのおよそ十年間にわたって将軍世子家慶の側近くに仕えました。その後、下三奉行・勘定奉行を経て、天保十一(1840)年三月二日に北町奉行となります。大御所家斉の死で、そのくびきをを脱したばかりの家慶にとって、身近でその働きぶりをみてきた遠山はもっとも信頼に足る、自らの治世に欠くことのできない存在だったのでしょう。遠山が勘定奉行、さらには町奉行に就任するにあたっても、将軍家慶の意向と後押しがあったことは容易に想像されます。公事上聴に関する遠山への賞誉には、自らの治世の体現者たるべき遠山の足元を盤石にしてやりたいという、将軍家慶の思いが込められていたように思われてなりません。

 

 天保十二年の公事上聴は、遠山に対する将軍の信頼と期待がいかに大きいかということをも世間に知らしめることになりました。しかし、それをもっとも重く受け止めたのは幕閣の首班であり、遠山の直属の上司である水野越前守であったのかもしれません。独断専行型の水野が政治生命をかけて推進する天保の改革に抵抗した町奉行二人(矢部駿河守と遠山左衛門尉)のその後の運命(※7)がそれをよく物語っているのではないでしょうか。

 

 では、金さんの下情に通じた刺青奉行のイメージは、当時の人々にもあったのでしょうか。

 先述の『江戸町奉行事績問答』の著者である元南組与力佐久間長敬は、同書の中で遠山について、次のように述べています。

 

  (遠山は)旗本の末男にて書生中はいつれの場所へも立入、能く下情を探索して後年立身の心掛け厚く、学力世才に長し、有為の仁物なりしが、外見にては放とふものにて身持悪しく、身体にほりものと唱墨を入れ、武家の鳶人足大部屋中間にまで交際し、游歩行(あそびありき)たる者など云評判を受けし者なれども、或年志を得て官途に登るや忽ち立身し(後略)

 

 若いころには様々な場所へ出入りし、庶民の暮らしぶりに触れて、後年は出世を志し、学もあれば世間の事情にも明るく、有用な人物ではあったけれども、外見は放蕩者で品行も悪く、身体には彫り物と称して刺青をし、武家に抱えられた鳶人足や大部屋の中間たちともつきあい、遊び人などと評判をとったりもしたが、ある年に志を抱いて官吏になるとたちまち出世した、というのです。まさに刺青奉行金さんのイメージそのものではありませんか。

 

 著者の佐久間長敬は「余初て勤に入りしは同人晩年南町奉行の頃」というように、嘉永三(1850)年、南町奉行遠山左衛門尉組の見習与力となります。佐久間は当時、弥太吉と名乗っており、まだ十二歳の少年でしたが、奉行の遠山からは「十五歳と心得るべし」といわれ、弥太吉もそのように振舞ったといいます。実際、嘉永四年の南組姓名書には「佐久間弥太吉 同十六」と、三つ多く鯖を読んだ年齢が記載されています。二年後の嘉永五年七月、弥太吉は祖父彦太夫が病免となった暇跡に抱入となり、正式に南組の本勤与力となります。しかし、その四か月前の三月二十四日、遠山は病気を理由に町奉行を辞任していました。六十歳の町奉行と十七(実際は十四)歳の見習与力とがどのくらい顔を合わせ、話をする機会があったかはわかりませんが、遠山の若いころに関する話などは先輩与力から大げさに聞かされた話であったのかもしれません。あるいは、酒宴の席で遠山が気分よく口を滑らせたものだったのでしょうか。佐久間は次のようにも書いています。

 

 「(遠山は)毛太く丸顔の老人にて、音声高く、威儀整ひ、老練の役人と見受たり」

 「当時の評判には大岡越前守(忠相)以来の裁判上手の御役人と申唱たり」

 

※1)寺社奉行、町奉行、勘定奉行のこと

※2)将軍または将軍世子が裁判を陪聴すること。南和男さんの旧幕府引継書『公事上聴一件』解題によれば、享保六(1721)年に八代将軍吉宗が城内吹上で行なったのが最初で、三奉行がそれぞれニ件、あわせて十五件程度を裁判し、四ツ時(午前10時)から始めて七ツ時(午後4時)に終るのが慣例であったそうです。

※3)『天保撰要類集』第三十 下 公事裁断之部 三

※4)原注では「八月十九日」とありますが、続泰平年表には「二十日」のこととあります。また『続徳川實紀』には「八月十九日」の条に、公事上聴により三奉行へ「時服を下さる」との記事があります。

※5)佐久間長敬『江戸町奉行事績問答』、東洋書院

※6)番入の際、両番(書院番、小姓組)に任じられる家筋のこと(用語集参照

※7)矢部は町奉行を罷免された上に桑名藩へ永預となり、その子は改易となりました。これに憤った矢部は自ら食を絶ち、憤死したといいます。一方の遠山はいったんは大目付に棚上げされ、改革の中枢から遠ざけられたものの、水野の失脚後は南町奉行に返り咲き、病免が許されるまでの七年間にわたって町奉行の職を勤め上げました。さしもの水野越前守も、将軍の覚えめでたく、世間の評判も良い遠山への露骨な手出しは躊躇われたのでしょう。

 

今太閤と言われた鈴木藤吉郎[補遺]

  • 2018.04.19 Thursday
  • 03:29

 

本編はこちら

 

1.東條八太夫父子のその後

 鈴木藤吉郎と対立し、先手組に左遷された東條八太夫父子はその後どうなったのでしょうか。

 万延元(1860)年六月二十日、東條八太夫、八太郎の父子はそろって長崎奉行支配調役並を申渡されます。八太夫は藤吉郎の姦計によって、長崎転任になったといわれていますが、本編で見たように藤吉郎は八太夫が町奉行所を追われてから七か月後に獄へ繋がれ、長崎転任の辞令が出る一年前にはすでに鬼籍の人となっていました。跡部甲斐守もまだ元清水付支配でくすぶっており、長崎奉行所の人事にまで介入できるような立場にはありませんでした。

 何よりも、八太夫自身が自らの『清々日記』で格式昇進(※1)を喜び、感謝の気持ちと意気込みを綴っています(※2)。ここに没落の暗さは微塵も感じられません。藤吉郎は、八太夫父子を町奉行所から先手組へ追ったことで、長崎転任のきっかけをつくりはしたものの、直接には関わっていないとみるべきでしょう。

 

 長崎奉行支配調役並東條八太夫の名前は、文久三(1863)年の武鑑にも見ることができます。しかし、元治・慶応の武鑑にはその名を見出すことができません。すでに七十に近かった八太夫は、その頃、次男の保太郎に家督を譲ったものと思われます。

 長男の八太郎は、天保十五(1844)年の内与力廃止の際に分家していましたが、父とともに長崎奉行所へ転任となった後、旗本役である調役本役を経て、元治元年正月には長崎奉行支配組頭勤方、翌慶応元(1865)年には同本役に昇進し、永々目見以上を仰渡されます。

 

 代々町方与力を勤めてきた八太夫一家は住み慣れた江戸を去り、遠く長崎の地に活躍の舞台を移しました。そして、八太郎の働きと昇進により、ついに旗本東條家が誕生します。父八太夫の喜びはいかばかりであったでしょうか。徳川幕府崩壊の三年前の出来事でした。

 

長崎奉行支配組頭として武鑑に載る旗本東條八太郎

(慶応三年版『大成武鑑』。国会図書館デジタルコレクション)

慶応三年武鑑


 

2.鈴木藤吉郎の悪名

 明治になって、忘れかけられていた鈴木藤吉郎の名が再び人々の話題へ上がるようになります。しかし、それらの多くは、藤吉郎にとっては不本意なものであったといえるでしょう。

 

(1)二代目松林伯圓の講談『安政三組盃』

 幕末から明治にかけて活躍した講談師の二代目松林伯圓は、講談『安政三組盃(あんせいみつぐみさかづき)』をつくって、これに悪役の鈴木藤吉郎を配し、話題を呼びます。伯圓の『安政三組盃』では、愛する小染を権柄尽くで我がものとし、一年半ものあいだ慰みものにした藤吉郎はやがて町奉行跡部能登守(※3)に身分詐称(※4)を見抜かれ、これをきっかけに、殺人など数々の悪事が露見して、破滅します。

 藤吉郎の名は今太閤としてではなく、『安政三組盃』に登場する悪徳与力鈴木藤吉郎として、復活を果たしました。

 

(2)森鴎外の史伝『鈴木藤吉郎』

 講談はいうまでもなく娯楽であり、創作物であって、決して事実を再現するものではありません。しかし、そこから生み出されたイメージや感情が人々の記憶に染みとおっていくプロセスは現実そのものです。繰り返し再生産される悪名に、藤吉郎の縁戚の一人が『安政三組盃』の弁妄を正して、藤吉郎の雪冤をしたいと、文豪森鴎外に訴えました。これに動かされて、書かれたのが鴎外の史伝『鈴木藤吉郎』でした。

 

(3)篠田鉱造著「八〇 鈴木藤吉郎の話」、『幕末百話』

 明治35(1902)年、新聞記者の篠田鉱造は市井に生きた無名の古老たちの回顧談を拾い集め、報知新聞に連載しました。それらの話を一冊の本にまとめ、明治38年に出版したのが『幕末百話』です。この中に「鈴木藤吉郎の話」があります。話し手の古老は、藤吉郎を「慈善で義侠心のあった仁(かた)でした」、「おかかりに非道の仁(ひと)のみでない」と語り、人間味溢れる藤吉郎の粋なはからいを伝えています。

 

(4)日活の映画『安政三組盃』、『安政侠艶記』

 日活が戦前に製作した映画に、『安政三組盃』を原作にしたと思われる次の2作品があります。

 

 ・大正6(1917)年製作・公開『安政三組盃

 ・昭和3(1928)年製作・公開『安政侠艶記(あんせいきょうえんき)』(監督:辻吉郎)

 

 『安政侠艶記』はタイトルこそ違いますが、杉田大内蔵やお染といった登場人物を見るかぎり、『安政三組盃』の世界を題材としていることは明らかでしょう。鈴木藤吉郎の名は、大正、昭和の世になってもの銀幕の中に生きつづけていました。

 

 

※1)長崎奉行支配調役並は、躑躅間で家督相続が認められる譜代席であるため、抱入場の町方、先手組の与力を勤めてきた八太夫にとっては、家格の上昇を意味していました(用語集参照

※2)岡崎寛徳「幕府御家人東條為一の長崎道中日記」、『大倉山論集54』

※3)能登守は、藤吉郎の後ろ盾であり、上役でもあった跡部甲斐守が最初に町奉行になったとき(弘化元年九月〜翌二年三月)の受領名です。『安政三組盃』の世界では、藤吉郎と跡部奉行は、敵同士ということになります。

※4)藤吉郎の身分詐称とは、彼が被差別部落の出であることを隠して公儀の役人になったことをいいます。これは藤吉郎を捕らえた北町奉行所の隠密廻同心大八木四郎三郎の探索報告書によれば、事実ではありません。しかし『安政三組盃』の中では、それこそが藤吉郎の命取りとなります。不条理な身分制度を基盤とした江戸の社会では、身分の詐称は確かに違法行為であったかもしれませんが、それを今日の私たちが何の疑いも抱くことなく、悪事の一つに数え上げることは、そのこと自体が犯罪的であるというほかありません。創作の上でのことではありますが、それが誰であろうと、自身の出自によって非難されるいわれなどなく、恥じることでもなく、ましてやそれが罪であろうはずもありません。

今太閤と言われた鈴木藤吉郎(後)

  • 2018.04.17 Tuesday
  • 04:27

 

前編はこちら

 

5.東條八太夫の反旗

 鳴り物入りで町奉行所の潤澤掛に就任した鈴木藤吉郎には、錚々たるメンバーが部下として付けられました。南組の支配与力で、当時町方で「第一の勢力家」といわれた吟味方上席の東條(ひがしじょう)八太夫もその一人でした。南町奉行の池田播磨守は、何ごとも八太夫に相談し、八太夫もまた万事を引き受け、「東條八太夫組池田播磨守」(※1)などと囁かれるほど、八太夫に絶大な信頼を寄せていたといいます。

 北の跡部は藤吉郎の後ろ盾の一人、南の池田も藤吉郎の起用を積極的に推し進めた人(※2)ですから、藤吉郎はよもや部下の抵抗に遭おうとは思ってもみなかったでしょう。ところが、その池田に信頼され、奉行所内で大きな発言力をもつ八太夫が藤吉郎の政策に異を唱えます。

 

 藤吉郎は諸色取引所の設立を目論んでいたといいます。元南組与力の佐久間長敬は、これにより「諸色を潤澤ならしめ、剰余を以って輸出品に充てよう」というのが藤吉郎の政策の眼目であったと述べています。これに対し、八太夫は「諸色の産出高を増やさずに、取引所を設ける」のは本末転倒であるといって反対したといいます。山師のような藤吉郎の口車に乗せられては危ういと考えたのかもしれません。

 八太夫とともに潤澤掛に任じられた吟味与力の中村次郎八や、八太夫を深く信頼する池田もこれに同調したといいます。南組は反対派で占められ、取引所の設立も暗礁に乗り上げます。

 

 

6.対立の激化

 五月七日には、八太夫に年番方当分兼帯の辞令が出ます。吟味方上席、市中取締諸色調掛に加えて、年番まで兼帯した八太夫は、町奉行所の三役(※3)といわれる最重要ポストすべてを握ったことになります。

 町方の顔ともいうべき存在の八太夫を奉行所の中枢に据えたわけですから、彼が藤吉郎に反対しつづけるかぎり、南北両町奉行、組与力同心を巻き込んだ対立にまで発展するのは必至といえました。佐久間長敬によれば、八太夫は最悪の事態を避けるため、再三にわたって池田奉行に辞職を願い出たといいます。しかし、池田はそれを許しませんでした。

 

 藤吉郎は、取引所の設立をあきらめず、かねてから八太夫と確執のあった南組の吟味与力蜂屋新五郎を味方に引き入れ、反対派の切り崩しをはかったといいます。

 また同じころ、藤吉郎は神田今川橋火除土手を取り払い、同所掘割を埋め立て、「藤吉が出て今川は亡びけり」と川柳に詠まれています。江戸の人々がいかに藤吉郎に注目していたかがうかがわれます。

 

 

7.報復人事

 六月十七日、老中首座阿部伊勢守が三十九歳の若さで急死します。藤吉郎は、潤澤掛就任からわずか三か月で、最大の後ろ盾を失いました。遅々として進まない取引所設立への焦りもあってか、藤吉郎は北組の跡部奉行と相談し、反対派の八太夫父子らを追い落とそうと画策します。すでに両派の対立は修復不可能なところまできていました。ここにいたって、池田奉行も八太夫の願いを一部聞き入れます。

 十月、池田は八太夫に「本所方申付、年番其外懸り役差免」の辞令(※4)を出します。八太夫を南町奉行所の中枢から外すことで、対立を軟化させようとしたのでしょう。しかし時すでに遅く、跡部奉行は、藤吉郎の後ろ盾の一人でもある老中久世大和守を動かしていました。

 

 十二月二十八日、南町奉行池田播磨守は大目付への転役を命じられます。天保改革時の老中首座水野越前守(忠邦)が改革に消極的な北町奉行遠山左衛門尉(景元)を大目付に棚上げしたのと同じ手口(※5)ともいえます。

 後任の南町奉行には、大目付から入れ替わりで伊澤美作守(政義)が就任します。翌二十九日、新任の伊澤奉行は八太夫父子を呼び出し、久世老中の名を以って「場所不相応に付、先手組與力へ組替」を命じました。

 

 

8.暗転

 跡部奉行と藤吉郎は、八太夫父子を町奉行所から追っただけでは気が済まず、彼らの不正を暴いて、幕臣としてのキャリアを永久に葬り去ろうとしました。そのため、八太夫父子との癒着を疑われる町名主三名を牢に入れ、厳しく追及します。しかし、ついに八太夫父子の不正を裏づける確たる証拠を得ることはできませんでした。

 一方、反対派の排斥に成功した藤吉郎も、何者かの密告によって、数々の罪状で追及を受けることになります。

 

 安政五年五月二十四日、藤吉郎の後ろ盾であった北町奉行跡部甲斐守が元清水付支配(※6)へ左遷されます。藤吉郎に肩入れして、八太夫父子を罪に陥れんがため、拷問を用いるなど、強引な見込捜査を行ったことが問題視されたのでしょうか。後任には、公事方勘定奉行石谷因幡守(穆清)が命じられました。

 六月、藤吉郎は南組の伊澤奉行から「米油諸色潤澤掛差免、並内寄合之節罷出候儀不及」と申渡されます。藤吉郎も八太夫も、同じ伊澤奉行から職を解かれたことになります。七月二十六日、藤吉郎は北町奉行所で「吟味中揚屋入」を申付けられます。同時に藤吉郎と不正を行ったとされる、米仲買人や米穀問屋ら五人も召捕られ、入牢しました。

 

 

9.終局 〜 藤吉郎の死

 安政六(1859)年五月五日、今太閤といわれ、安政の江戸を派手に駆け抜けた鈴木藤吉郎は獄死しました。「口書捺印済之上」であったということですから、藤吉郎は罪を認めていたことになります。享年五十九歳。

 藤吉郎の死には、ご多分に漏れず毒殺説もありますが、森鴎外は史伝『鈴木藤吉郎』の中でこれを一蹴し、「鈴木は所謂百姓牢に入れられ、牢熱に侵されて死んだ」という佐久間長敬の話を紹介しています。

 十一月十八日、北町奉行石谷因幡守によって、藤吉郎への判決が下りました。

 

「存命に候得ば遠島」

 

 藤吉郎に莫大な富をもたらした米相場がついには藤吉郎に身の破滅をももたらしました。

 一年後の万延元(1860)年六月二十日、東條八太夫、八太郎の父子は町方与力に返り咲くことなく、そろって長崎奉行所への転任を命じられます。こうして、世間の注目を一身に集めた今太閤も、南北両町奉行所で活躍した名与力も江戸の町から姿を消しました。

 

 

※1)井伊家史料「安政六年十二月 徒目付小人目付届出書」。本来は「町奉行池田播磨守組与力東條八太夫」というべきところを上下逆さにして、池田奉行が八太夫の言いなりになっている様を揶揄した陰口

※2)前掲届出書は、池田播磨守を万事に用心深く、上にはへつらい、下へは機嫌を取る人物だとし、阿部老中に取入るため、その意中を察して自ら文案まで練り、藤吉郎を推薦すること三度に及んだとあります。

※3)佐久間長敬著、南和男校注『江戸町奉行事蹟問答』、東洋書院

※4)本所方はそれまで壱番組支配与力の中村八郎左衛門(七十六歳。中村次郎八の父)が十七年の長きにわたって勤めてきました。十月二十七日には、その八郎左衛門が病気を理由に依願退職したため、年番其外の掛役を免じられた八太夫がその後任となりました。当時、北組の本所方は加藤又左衛門(六十四歳)で、八郎左衛門と同じく支配与力(壱番組)でした。八郎左衛門の前任の由比八十太夫や、又左衛門の前任の都築十左衛門も支配与力で本所方を勤めていました。もともと本所方は、享保四(1719)年に廃止された本所奉行(旗本役で定員は二名。書院番・小姓組からの出役)から、本所・深川の町方支配を引き継いだもので、それだけに組与力の中でも老練の者が勤める傾向にありました。年番方ほどの権勢や吟味方のような華やかさはなかったものの、本所方は町奉行所の掛役の中でも重みのある役職だったものと思われます。

※5)大目付は、町奉行と同じ役高三千石ながら、町奉行の上席とされているため、町奉行から大目付への役替えは表向きには栄転といえなくもありません。しかし官僚機構が整った江戸中期以降、大目付は式部官的な傾向を強め、幕政の中心にある町奉行と違って、栄職ではあるものの、本来の監察官としての実権は失っていました。そのため、引退前の重職経験者や、次のポスト待ちの人が一時的に座る役職と化していきました。水野はこれを利用し、改革の推進に邪魔ではあっても、将軍の覚えがめでたく、勤務に瑕疵もない遠山をあからさまに左遷するわけにもいかないため、大目付に棚上げすることで改革の現場から遠ざけたといいます。

※6)当時、御三卿の清水家は明屋形(当主がいないこと)となっていました。安政五年五月、幕府はそれまでの清水付家老を元清水付支配に改称し、これに跡部甲斐守を任じました。

 

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今太閤と言われた鈴木藤吉郎(前)

  • 2018.04.16 Monday
  • 15:36

1.前半生

 安政年間にこんな川柳があったといいます。

 

「藤吉ははしばで旗を揚げにけり」


 藤吉とは、もちろん豊太閤(羽柴秀吉)のことではありません。本稿の主人公・鈴木藤吉郎は享和元(1801)年、下野国の百姓(※1)に生まれ、米相場で財を成し、それを元手に大名や旗本にも金を貸し付け、水戸老候(前水戸藩主徳川斉昭)や老中首座阿部伊勢守(正弘)ら時の権力者とも付き合いがありました。

 

 冒頭の川柳は、藤吉郎の住居が浅草花川戸にあったことから、その近くの浅草橋場と羽柴をかけ、その立身ぶりがかつての太閤秀吉のようだと詠んだのでしょう。「藤吉ははしばでなくて花川戸」という川柳もありました。何にせよ、こうして川柳に詠まれるぐらいですから、当時はかなりの有名人であったことに間違いはないと思います。

 藤吉郎が水戸家に仕えていた頃、頭の回転が早く、金のやり繰りも上手で、何ごとにも抜かりのない様子に感心した老侯が、まるで今日の太閤秀吉のようだ(当時之秀吉なり)といって、名を藤吉郎に改めさせたという逸話も伝わります。

 

 早くに両親を亡くした藤吉郎は、親類の郷士斎藤弥平次に引き取られ、政之進と名乗ります。その頃、弥平次の弟三蔵が一橋家の書院番頭鈴木総右衛門の養子となり、すでに家督も相続していました。藤吉郎は三蔵に引き取られ、鈴木家の厄介として育ちます。長じて名を兼輔と改めた藤吉郎は、三蔵の養子となって養父が病で隠居した跡を相続します。

 その後、藤吉郎は町人名義で派手に商売をしていたところ、身分不相応ということになり、一橋家を永の暇となりました。しかし、六年ほど浪人した後、藤吉郎は水戸家に召抱えられ、十人扶持を与えられます。

 

 

2.町奉行直属の浪人

 藤吉郎が病と称して水戸家を依願退職したのは安政三(1856)年四月頃のことだったようです。北町奉行所の年番方が編纂した記録集(※2)には、安政三年五月七日付の町奉行宛文書として、「元水戸殿家来 鈴木藤吉郎。右今度水戸殿方暇相成候処追而御用之品も有之候に付其方ども直支配に可被申付候」との内容が記録されています。「其方ども」とは宛名のとおり南北両町奉行のことで、北が井戸対馬守(覚弘)、南は池田播磨守(頼方)でした。

 要するに、鈴木藤吉郎が水戸家を退職したから、町奉行直属の手付として、勤めさせろというわけです。指示したのは、老中首座阿部伊勢守。一介の家持ち浪人に過ぎない藤吉郎の身の振り方について、幕閣のトップが町奉行に直接指示をだしているのですから、驚きの念を禁じえません。

 

 藤吉郎には、三人の有力な後ろ盾があったといわれています。そのうちの一人が阿部で、他に老中久世大和守(広周)と、半年後には藤吉郎の上司となる北町奉行跡部甲斐守(良弼)がいました。それにしても、水戸家を辞めてすぐに町奉行所から声がかかるというのはさすがに手際が良すぎるというほかありません。初めから、水戸老侯と阿部老中、町奉行との間でその時期も含めた話ができあがっていたとしか考えられません。

 こうして、藤吉郎は阿部老中の指示を受けた池田奉行から南町奉行所に呼び出され、町奉行直支配を申し渡されます。ただこのときには、藤吉郎はまだ禄すらもらっておらず、身分の取扱も浪人のままだったようです。諸大名を相手に手広く金貸しをする、町奉行直属の家持ち浪人というわけですから、江戸の人々の耳目を集めたのも不思議はありません。ついでにいえば、藤吉郎はまだ三蔵の厄介だった頃、諸国を廻って剣術修行をし、江戸に戻った後は浜町で剣術の師範をしていたという話もあります。チャンバラもいけて、講談や演劇、映画などの主人公には恰好な経歴の持ち主でした。

 

 

3.諸色潤澤掛

 安政四年三月二日、藤吉郎は北町奉行跡部甲斐守(井戸対馬守の後任)から呼び出しを受け、内座之間で南町奉行池田播磨守立ち合いの下「町奉行所御用聞手附、新規三十人扶持、与力上席」を申し渡され、つづいて「米油諸色潤澤方取調」を命じられます。さらに南町奉行所では池田奉行から「国益向主法諸色潤沢掛」に任じられました。藤吉郎はこのとき、南北両町奉行所に控席を与えられ、両組与力同心十数人を部下に付けられています。

 藤吉郎は町奉行所の与力だったといわれますが、南北どちらかの町奉行所に属し、その組与力となったわけではなく、むしろ藤吉郎のために諸色潤澤方という町奉行所の外局が新たに設けられ、そのトップにおさまったという方が正確だと思います。町奉行直支配与力上席のポジションが与えられたのもそのためでしょう。

 

■鈴木藤吉郎への申渡(旧幕府引継書『七十冊物類集』。国会図書館デジタルコレクション)

申渡01

申渡02


 

4.藤吉郎の栄華

 元南組与力佐久間長敬は、当時まだ二十二歳の駆け出し与力で、弥太吉と名乗っていましたが、藤吉郎が潤澤掛の辞令を受けた翌日、年番与力に命じられて、祝儀のために藤吉郎の屋敷を訪れています。その屋敷は「大抵千石以上の旗本位の構」だったといいます。

 そのとき、弥太吉が近隣で聞いた噂によれば、藤吉郎は水戸老侯や老中たちとも膝組で話をする人で、外出の際には近隣の人々は土下座をし、名をいわすに「橋場の御前様(※3)」と呼び、いずれは町奉行にもなる人だといわれていました。浪人の身分(元水戸藩士)で信じられないような話ですが、こうした噂もおのれの名に箔をつけるため、藤吉郎自らが尾鰭をつけて広めていたのではないかという気もします。何ごとにつけ派手好みで、ハッタリの得意な藤吉郎の言動も、世間の人々にはいかにも今太閤らしいと感じられたのかもしれません。

 

 この頃が藤吉郎の絶頂期でした。藤吉郎にとっては、野望の第一歩を踏み出したに過ぎないという思いであったかもしれませんが、暗雲はもうすぐそこに迫っていました。

 

 

※1)藤吉郎の出身地には諸説ありますが、元南組与力の佐久間長敬によれば、「安政五午年戊午北町奉行石谷因幡守穆清申付、同組隠密廻大八木四郎三郎取調候鈴木藤吉郎身分探偵書」には「野州都賀郡深岩村百姓藤吉倅」とあったそうです。

※2)旧幕府引継書『七十冊物類集』

※3)御前(様)とは通常、三千石以上の格式の旗本当主に対する敬称

 

後編につづく

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