大概順と中野又兵衛:二つのキャリア集団

  • 2020.09.14 Monday
  • 00:43

 旗本・御家人の役職を、ある時点での序列どおりに列挙したものを「大概順」といいます。

 幕府の組織を知る上では貴重かつ有用な人事資料といえますが、一方で幕府の人事制度はとても複雑である上に、人事は生ものですから、一見すると分かりづらく、前後の事情を知らないと戸惑うものもあります。

 

 例えば、「大概順」は「布衣以上(重き役人ともいわれる高級官僚)」「布衣以下御目見以上(一般的な旗本役)」「御目見以下(御家人役)」の三つのパートに分かれているのが普通ですが、天保年間の「布衣以上大概順」には、美濃郡代、西国郡代、飛騨郡代と続いた後で、「中野又兵衛(※1)」のように、唐突に個人名が出てくることもあります。医師でも儒者でもなさそうだし、布衣以上の高級官僚ですから職人や芸能者の名跡というわけでもなさそうです。

 じつは彼は元御目見以下の御家人出身者であるため、「寛政譜」に家名は載っていませんが、支配勘定を経て評定所留役勘定組頭(留役組頭)にまで昇り、永久旗本への昇進も果たし、いずれは勘定所を担って立つだろうとまで嘱望されていた新進気鋭の官僚でした。大概順掲載時点では、勘定組頭ながらも長年の精勤を賞されて、布衣の着用を許されていました。勘定奉行支配の役人で布衣の着用を許されるのは通常、勘定奉行以上の権勢を誇ったとまでいわれる勘定吟味役からですから、留役組頭にすぎない又兵衛が布衣の着用を許されていたのは例外的な人事といえました。周囲の信頼と期待の大きさが伺えるわけですが、それゆえに「布衣以上大概順」でも、(勘定組頭は布衣以下の序列となるため)末尾に又兵衛の名前のみが例外的に掲載されていたわけです。

 

 それほど将来を嘱望されていた又兵衛でしたが、大坂町奉行在任中に亡くなり、勘定奉行として江戸に戻ってくることはありませんでした。その又兵衛以上の勢いで出世の階段を駆け上がっていったのが幕末屈指の俊英とされる川路弥吉(聖謨)でした。又兵衛が留役組頭となった年に、同じ御家人出身者の弥吉は、(御目見以下の)留役助支配勘定から(御目見以上となる)留役勘定に昇進しています。その四年後、寺社奉行吟味物調役に転任した弥吉は、更にその四年後には勘定組頭格となり、有名な仙谷騒動を担当することになります。これが弥吉の大きな転機となりました。

 寺社奉行脇坂中務大輔(安董)の右腕として、仙谷騒動で辣腕を揮い、その名を馳せた川路弥吉は又兵衛より半月早く勘定吟味役となり、出世の階段を昇り詰めていきます。「布衣以下御目見以上大概順」で弥吉の名前が「勘定組頭格寺社奉行吟味物調役」として出てくるのは、仙谷騒動を足掛かりに大躍進を遂げる直前の弥吉が上昇過程の真っ只中で残した足跡ともいえるでしょう。寺社奉行吟味物調役は本来、勘定吟味方改役の次、留役勘定の上とされる場所(役職)で、諸役人中の序列は低いものの、御目見以下の御家人や、下級旗本の子弟が筆算吟味への及第を糸口に、出世の機会を得ようと集まってくる登竜門的なポジションで、当時の武家社会にあっては日本中の俊才が集う場所といえました。九州の地役人にすぎなかった父の夢を叶えんがため、貧乏御家人から身を起こし、立志伝中の人となった弥吉のような青年が、この頃の勘定所にはひしめき合っていたのです。また、そのような登竜門的なポスト(寺社奉行吟味物調役)の、三十そこそこの御家人出身者(弥吉)が留役組頭とほぼ同等のポジション(勘定組頭格)まで、比較的短期間のうちに正規の人事ルートで成り上がれたわけですから、当時の勘定所の勢いと可能性が伝わってきます。

 実際、幕府にも身分の固定による組織の硬直化を憂慮し、それを打破・是正すべく、新しい血を導入して、激変する社会情勢にも適応しうる人材を育成・確保していこうとする意図があったように思います。それは「重き御役人」の中核を成す評定所一座のメンバー(※2)や、その他の勘定所系人事からも伺うことができます。

 次期老中ともいうべき寺社奉行の面々。旗本の大多数を占める、小普請から番筋へ出る諸家のうち、もっとも家筋がよく、旧来からエリート層とされ、要職を独占しつづけてきた両番筋の出身者にほぼ独占されてきた町奉行。彼らに対し、勘定奉行やその支配下のポストは、両番筋以外の出身旗本や、御家人から成り上がった昇進家の人たちにも門戸が開かれ、選抜に選抜を重ねて、中野又兵衛や川路弥吉、久須美権兵衛(※3)や佐々木脩輔(※4)らの俊英を多数輩出しました(※5)

 

  嵶照峩據廚箸いΑ◆峪芦楼瞥茲痢弉畔舛物をいう、エリート軍人たち。目付を経て、遠国奉行や下三奉行に昇り、更には大目付、町奉行、勘定奉行までも昇りました。

 ◆峇定所」を中心とした、筆算(読み書き)能力や専門技能が前提となる成り上がり官僚たち。徒目付や火の番などからも支配勘定へと昇り、同寮経昇により、目見以上の場所(勘定等の役職)にも取り立てられ、勘定組頭、勘定吟味役をも経て、勘定奉行までも昇りました。

 

 徳川幕府はこの二つのキャリア集団が奏でるオーケストラの中で、番方と役方の折り合いをつけながら、かろうじて成り立っていました。

 

※1)中野石見守(長風)寛政譜書継御用出役相勤申候より

※2)評定所一座、すなわち三奉行(寺社奉行、町奉行、公事方勘定奉行)は、幕府の最高裁判所ともいうべき役割を果たしていただけではなく、とりわけ江戸後期・幕末期には幕閣の諮問機関として幕政上重要な位置を占めました。三奉行のうち、寺社奉行はよほどのことがない限り、後に老中となる人物であり、町奉行は両番筋出身者にほぼ独占された役方トップであるのに対し、勘定奉行は御家人や無筋の旗本をも含む幕臣全体から選び抜かれた俊英たちでした。事実上の次期老中(寺社奉行)、エリート旗本の現役トップ(町奉行)、全幕臣から選抜された俊英中の俊英(勘定奉行)の組み合わせである彼ら評定所一座の総意は幕府の意思というにふさわしく、大変重きをなしました。

※3)久須美佐渡守(祐明)。元御目見以下。寺社奉行吟味物調役、納戸頭、佐渡奉行、大坂町奉行などを経て、天保十五(1844)年十月二十四日、念願の公事方勘定奉行となりました。時に七十四歳のことでした。

※4)佐々木信濃守(顕発)。同前

※5)勘定所系人事の大きな利点の一つは『明良帯録』にいうところの「同寮経昇(内部昇格)」のしやすさにより、身分の壁を越えて、積極的な人材登用が可能な点にもありました。元々武士からは軽く見られがちな(誰もが重要性を認識しつつも、金銭に関わる職務(※6)への蔑視の意識ゆえに家格へのこだわりが少ない)役目の組織であったればこそといえるかもしれません。

※6)公事方においても、金公事(金銭債権およびそれに準ずるものに関する民事訴訟)が圧倒的多数を占めており、幕府は強く内済(和解)を推奨していました。

 

(2020年10月17日加筆修正)

 

町奉行吟味物調役のこと

  • 2017.09.01 Friday
  • 05:16

 前回の記事の後半で、町奉行吟味物調役と内与力の話を少ししました。

 町奉行吟味物調役(設置当初は支配留役といいましたが、まもなく吟味物調役と改められました。※1)は、寛政八(1796)年三月十七日に始めて置かれ、文化八(1811)年八月二十八日に廃止されるまでの僅か十五年間しか存続しなかったため、その役名を知る人も少ないようです。この点、天明八年から幕末までつづき、川路聖謨(後の勘定奉行)や久須美祐明(後の勘定奉行)、佐々木顯発(後の勘定奉行、町奉行)、井上清直(後の勘定奉行、町奉行。川路聖謨の実弟)らを輩出した寺社奉行吟味物調役とは大いに異なるところです。

 

 「天保年間諸役大概順」(※2)によれば、寺社奉行吟味物調役(百五十俵二十人扶持)は。布衣以下御目見以上の役職で、勘定吟味方改役(百五十俵十人扶持。勘定吟味役支配)の次、評定所留役(百五十俵二十人扶持。勘定奉行支配)、勘定(百五十俵。勘定奉行支配)の前に記載されています。また、町奉行吟味物調役(百五十俵二十人扶持)については、評定所の格例で席順が「寺社奉行支配留役の次、評定所留役の上」とされていました。これらは役扶持に多少の差はあるものの、役高も同じ(百五十俵)で、概ね同格の役職といえるようです。吟味物調役の支配者は寺社奉行や町奉行ですが、いわば評定所(勘定所)からの出向のようなもので、いずれも勘定所系のポストといえます。

 

 町奉行吟味物調役を勤めたのは、南北あわせても次の七人しかいません。

 野沢半太郎(南。支配勘定より):寛政八年三月十七日〜文化三年頃

 田島清三郎(南。徒目付より):同断〜同年十一月十三日

 雨宮雲九郎(北。支配勘定評定所留役助より):同断〜文化八年頃

 大塚亀之進(北。徒目付より):同断〜享和元年頃

 高木幸次郎(南。徒目付より):寛政八年十一月十三日〜文化九年頃

 横山鍋五郎(北。評定所留役より):享和三年頃〜文化九年頃

 久須美権兵衛(南。評定所留役より、※3):文化四年頃〜文化八年頃

 

 文化八年八月に町奉行吟味物調役は廃止となりますが、文化九年の武鑑には同役の欄に高木幸次郎(南)と横山鍋五郎(北)の名前が載っています。単に武鑑の情報更新の遅れとも考えられますが、南北両組とも一人ずつ残っているところを見ると、引継ぎや残務処理のためだったのかもしれません。彼らの前職を見ると、徒目付や支配勘定など、御家人からの抜擢が多いことも、「成り上がり者」を多数輩出した、当時の勘定所系人事の特徴といえます。

 

 なお、天保十五年二月、南町奉行鳥居甲斐守と北町奉行鍋嶋内匠頭の進達により、内与力が廃止された際には、町奉行吟味物調役とは違いますが、同じ「吟味物調役」という名称の掛役が南町奉行所に設置されています(※4)
 

※1)天明八(1788)年八月二十八日、寺社奉行手附が新設され、勘定評定所留役の四人が任じられました(なおこの時、留役の支配者である勘定奉行には「只今迄之通、其方共支配の積と心得らるべく候」との申し渡しがありました)。その後、寛政三(1791)年二月八日に寺社奉行支配留役と改められ、同八(1796)年三月十七日には町奉行所にも支配留役が置かれました。同年四月二十九日、寺社奉行・町奉行支配留役は、同吟味物調役と改められました。(『古事類縁』官位部 第3巻)

※2)財団法人尾張徳川黎明會編『徳川禮典録』巻之二十五

※3)久須美祐明。後に寺社奉行吟味物調役、納戸頭、佐渡奉行、大坂町奉行などを経て、天保十五(1844)年十月二十四日、念願の公事方勘定奉行となりました。時に七十四歳のことでした。

※4)旧幕府引継書の『與力同心御役掛名前』によります。ただし同書は南組の年番方が作成した書類であるため、北組でも設置されたかどうかまでは分かりません。このときは、三番組支配与力の佐久間彦太夫、五番組支配与力の仁杉八右衛門、弐番組次席与力の原鶴圓門の三人が吟味物調役に任じられていますが、七か月後には肝心の鳥居甲斐守が町奉行を罷免され、翌年六月にはこの掛役も廃止となったようです。

 

(2018年4月5日加筆修正)

calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     
<< November 2020 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

profile

search this site.

link

江戸北町奉行所 公式ウェブサイト
江戸北町奉行所 公式ウェブサイト

にほんブログ村

にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
 歴史ブログ

人気ブログランキング

link2

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM