更新記録と目次

  • 2018.12.02 Sunday
  • 03:00

(新着・更新記事)

町奉行所の三大分課 2018.12.12加筆修正

遠山の金さんの実像 2018.9.23公開

[用語集]幕府の給与規則 2018.6.17公開

男扶持五合、女扶持三合 … ほんとにそんなに食べてたの? 2018.5.2公開

今太閤と言われた鈴木藤吉郎 2018.4.19更新

 

(目次:■はカテゴリ、・は新着・更新記事)

町奉行所の組織と人事

町奉行所の三大分課 2018.12.2加筆修正

見習与力から筆頭与力へ 2018.2.9更新

花形「三廻り同心」

廻り方同心の大量処分 2017.10.18公開

定廻り同心は本当に六人だったか 2017.11.2更新

隠密廻りのおじいちゃんたち 2017.11.2更新

町方与力同心の給与

町方与力同心の給与:与力篇(前) 2018.7.11加筆訂正

勘定所の成り上り者

町奉行吟味物調役のこと 2018.4.5加筆修正

人と事件

遠山の金さんの実像 2018.9.23公開

今太閤と言われた鈴木藤吉郎 2018.4.19更新

用語集

幕府の給与規則 2018.6.17公開

データ 町奉行所の平面図、職員名簿など

町奉行役宅 2018.3.22公開

天保十二丑年十月 北町奉行所住居向絵図面 2018.3.21更新

天保十三寅年二月 南町奉行所住居向絵図面 2018.3.21更新

雑感 2018.5.2更新

遠山の金さんの実像

  • 2018.09.23 Sunday
  • 11:39

 天保十二(1841)年八月十八日、江戸城内の吹上で三奉行(※1)による公事上聴(※2)が行われました。この時、北町奉行であった遠山(の金さん)が担当した裁判は、奉行所の編纂した記録(※3)によれば、

 

 ・養子対談違変出入

 ・弟子身分引渡出入

 

という二件の公事出入(民事裁判)でした。

 その二日後(※4)、将軍家慶から遠山への賞誉の沙汰があり、その写しが『江戸町奉行事蹟問答』(※5)に載っています。

 

  天保十年八月二十二日[原注]殿中御沙汰書写
  町奉行遠山左衛門尉景元、今般於吹上公事上聴の節、吟味の躰、利害の趣等行届候、

  兼而吟味巧者ニ相捌き候由被及聞召候処、今般之振舞格別之儀、可為奉行者左も可有之事ニ候旨、越前守殿を以御沙汰ニ被及候事、

  [原注]天保十二年八月十九日のことなり

 

 時服を下された「だけ」の他の三奉行たちとは違って、遠山唯一人が将軍から「奉行たるべき者はそのようにあるべきだ」との賞賛を賜ったのですから、我らが金さんも大いに面目を施したことでしょう。老中首座水野越前守(忠邦)を通じて、遠山への沙汰が伝えられたことを考えると、あるいは将軍家慶には単に遠山の裁判に感心したというだけではなく、このことをきっかけに彼を強く後押しする気持ちがあったのではないかという気もします。

 

 町奉行は大目付や勘定奉行と並ぶ役方トップの栄職でしたが、能力があれば小禄の身からでも成り上がるケースが見られた勘定奉行と違って、そのほとんどがエリート旗本たる両番筋(※6)の出身者で占められていました。遠山家も両番筋ではあったものの、金さんの経歴が他の町奉行たちと異なっているのは、彼が番入することなく、中奥から表の役方に転じ、町奉行まで昇っているということです。中奥とは、幕府の公式行事が行われたり、諸役人が詰める「表」ではなく、将軍の妻子が暮らす「大奥」でもなく、将軍が日常起居し、政務を執る、将軍の生活エリアでした。金さんは時代劇や講談による、下情に通じた刺青奉行のイメージからは意外に思われるかもしれませんが、側衆や小姓たちとともに将軍(または将軍世子)の側近くに仕え、親類との交際すらも慎まなければならないとされる将軍世子の昵近衆だったのです。

 

 遠山はまだ部屋住みだった文政八(1825)年、三十三歳のときに西丸小納戸として召し出されると、忽ち頭角を現し、天保三(1832)年には同頭取格となり、天保六年までのおよそ十年間にわたって将軍世子家慶の側近くに仕えました。その後、下三奉行・勘定奉行を経て、天保十一(1840)年三月二日に北町奉行となります。大御所家斉の死で、そのくびきをを脱したばかりの家慶にとって、身近でその働きぶりをみてきた遠山はもっとも信頼に足る、自らの治世に欠くことのできない存在だったのでしょう。遠山が勘定奉行、さらには町奉行に就任するにあたっても、将軍家慶の意向と後押しがあったことは容易に想像されます。公事上聴に関する遠山への賞誉には、自らの治世の体現者たるべき遠山の足元を盤石にしてやりたいという、将軍家慶の思いが込められていたように思われてなりません。

 

 天保十二年の公事上聴は、遠山に対する将軍の信頼と期待がいかに大きいかということをも世間に知らしめることになりました。しかし、それをもっとも重く受け止めたのは幕閣の首班であり、遠山の直属の上司である水野越前守であったのかもしれません。独断専行型の水野が政治生命をかけて推進する天保の改革に抵抗した町奉行二人(矢部駿河守と遠山左衛門尉)のその後の運命(※7)がそれをよく物語っているのではないでしょうか。

 

 では、金さんの下情に通じた刺青奉行のイメージは、当時の人々にもあったのでしょうか。

 先述の『江戸町奉行事績問答』の著者である元南組与力佐久間長敬は、同書の中で遠山について、次のように述べています。

 

  (遠山は)旗本の末男にて書生中はいつれの場所へも立入、能く下情を探索して後年立身の心掛け厚く、学力世才に長し、有為の仁物なりしが、外見にては放とふものにて身持悪しく、身体にほりものと唱墨を入れ、武家の鳶人足大部屋中間にまで交際し、游歩行たる者など云評判を受けし者なれども、或年志を得て官途に登るや忽ち立身し(後略)

 

 若いころには様々な場所へ出入りし、庶民の暮らしぶりに触れて、後年は出世を志し、学もあれば世間の事情にも明るく、有用な人物ではあったけれども、外見は放蕩者で品行も悪く、身体には彫り物と称して刺青をし、武家に抱えられた鳶人足や大部屋の中間たちともつきあい、遊び人などと評判をとったりもしたが、ある年に志を抱いて官吏になるとたちまち出世した、というのです。まさに刺青奉行金さんのイメージそのものではありませんか。

 

 著者の佐久間長敬は「余初て勤に入りしは同人晩年南町奉行の頃」というように、嘉永三(1850)年、南町奉行遠山左衛門尉組の見習与力となります。佐久間は当時、弥太吉と名乗っており、まだ十二歳の少年でしたが、奉行の遠山からは「十五歳と心得るべし」といわれ、弥太吉もそのように振舞ったといいます。実際、嘉永四年の南組姓名書には「佐久間弥太吉 同十六」と、三つ多く鯖を読んだ年齢が記載されています。二年後の嘉永五年七月、弥太吉は祖父彦太夫が病免となった暇跡に抱入となり、正式に南組の本勤与力となります。しかし、その四か月前の三月二十四日、遠山は病気を理由に町奉行を辞任していました。六十歳の町奉行と十七(実際は十四)歳の見習与力とがどのくらい顔を合わせ、話をする機会があったかはわかりませんが、遠山の若いころに関する話などは先輩与力から大げさに聞かされた話であったのかもしれません。あるいは、酒宴の席で遠山が気分よく口を滑らせたものだったのでしょうか。佐久間は次のようにも書いています。

 

 「(遠山は)毛太く丸顔の老人にて、音声高く、威儀整ひ、老練の役人と見受たり」

 「当時の評判には大岡越前守(忠相)以来の裁判上手の御役人と申唱たり」

 

※1)寺社奉行、町奉行、勘定奉行のこと

※2)将軍または将軍世子が裁判を陪聴すること。南和男さんの旧幕府引継書『公事上聴一件』解題によれば、享保六(1721)年に八代将軍吉宗が城内吹上で行なったのが最初で、三奉行がそれぞれニ件、あわせて十五件程度を裁判し、四ツ時(午前10時)から始めて七ツ時(午後4時)に終るのが慣例であったそうです。

※3)『天保撰要類集』第三十 下 公事裁断之部 三

※4)原注では「八月十九日」とありますが、続泰平年表には「二十日」のこととあります。また『続徳川實紀』には「八月十九日」の条に、公事上聴により三奉行へ「時服を下さる」との記事があります。

※5)佐久間長敬『江戸町奉行事績問答』、東洋書院

※6)番入の際、両番(書院番、小姓組)に任じられる家筋のこと(用語集参照

※7)矢部は町奉行を罷免された上に桑名藩へ永預となり、その子は改易となりました。これに憤った矢部は自ら食を絶ち、憤死したといいます。一方の遠山はいったんは大目付に棚上げされ、改革の中枢から遠ざけられたものの、水野の失脚後は南町奉行に返り咲き、病免が許されるまでの七年間にわたって町奉行の職を勤め上げました。さしもの水野越前守も、将軍の覚えめでたく、世間の評判も良い遠山への露骨な手出しは躊躇われたのでしょう。

 

[用語集]幕府の給与規則

  • 2018.06.17 Sunday
  • 04:27

■「蔵米取」:一俵三斗五升入で支給
■「地方取」:四ツ物成。即ち、一石につき、四斗の割合
■「足高」:すべて蔵米で支給。一石は三斗五升入一俵の割合
 例えば、役高千石の内、家禄が地方五百石ならば、不足分の五百石が足高となり、蔵米で三斗五升入五百俵が支給されます。地方五百石は四ツ物成ですから二百石、足高は三斗五升入で五百俵ですから百七十五石で、あわせて三百七十五石が収入となります。
■地方取の幕臣が蔵米取の「場所(役職)」に任じられた場合、家禄一石を一俵と見積り、不足分を蔵米で支給
■「給金取」が蔵米取の場所に任じられた場合、三両につき、十俵の割合で蔵米に直し、支給

 

 小普請役金の算定基準
■五百石以上は、百石につき、金二両。但し、地方五百石と蔵米五百俵は同様(以下、これに同じ)
■五百石以下は、百石につき、金一両二分
■「現米」は、三斗五升俵に直し、その俵数を基準高とし、算定(例えば、現米七十石は蔵米二百俵と同様)
■「扶持方」は一人扶持を五俵と見積り、算定

 


     諸役人被下高割合
一諸向え被下高、御足高共、御蔵米を以被下候分は、一俵三斗五升入を以被下候事
一地方ニ而被下候者は四ツ物成、即一石ニ付四斗之割を以知行被下候事
  但 地方取之者ニ而も、御足高は都而御蔵米ニ而、一石は三斗五升入一俵之割ニ而被下、譬は高千石内
    五百石持高知行
    五百石御足高御蔵米ニ而五百俵三斗五升入被下
一御蔵米ニ而被下候場所え地方取之者被 仰付候得は、持高一石は一俵と見積り、不足之分御蔵米ニ而被下候事
一御給金取之者、御蔵米取之場所え被 仰付候節は、三両ニ付十俵之割に直し被下候事

 

     小普請御役金之事
一五百石以上は百石に付金二両之割
  但 地方五百石之者御蔵米之五百俵同様、以下倣之
一五百石以下百石に付金一両二分之割
一現米は三斗五升俵に直、其俵数之高を以相納之
一御扶持方は一人扶持五俵積り
 右之通享保九辰年四月被 仰出之
  但 老衰小普請入ハは高に不拘、御役金御免之事

 

以上、「徳川礼典附録 巻ノ二十五」(松平慶永等編『徳川礼典録』、尾張徳川黎明会)より

 

男扶持五合、女扶持三合 … ほんとにそんなに食べてたの?

  • 2018.05.02 Wednesday
  • 12:34

 江戸幕府の「一人扶持」とは、成人男性一人が一日に食べる米の量を五合とみなし、月に一斗五升を月俸として支給する給与方式のことをいいます。また成人男性の「男扶持五合」に対して、成人女性の「女扶持三合」という基準もありました。

 この話をすると、たいてい「えっ、そんなに食べていたの?」と驚かれます。一汁一菜の粗食イメージがあるからでしょうか。しかし裏返せば、不足するカロリーを補うためには米を大量に食べる必要があったということにもなります。とはいえ、一合をおよそ茶碗二杯分とすれば、一日に五合で茶碗十杯分となります。確かに現代人の感覚には、いささか多すぎるように感じられるのも無理はない気がします。本当にそんなに食べていたのでしょうか。

 

 山下泰平さんという方のブログに「明治人はどのくらい米を食べていたのか?」という記事がありました。それによると、日露戦争時の日本兵は一日に六合ほどの米を食べていたそうです。また、平均的な明治の若者は五合弱の米を食べていたともあります。宮澤賢治の『雨ニモマケズ』には「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」という一節もあります。百年前の日本人は、私たち現代人が考えるよりもはるかにたくさんの米を食べていました。

 

今太閤と言われた鈴木藤吉郎[補遺]

  • 2018.04.19 Thursday
  • 03:29

 

本編はこちら

 

1.東條八太夫父子のその後

 鈴木藤吉郎と対立し、先手組に左遷された東條八太夫父子はその後どうなったのでしょうか。

 万延元(1860)年六月二十日、東條八太夫、八太郎の父子はそろって長崎奉行支配調役並を申渡されます。八太夫は藤吉郎の姦計によって、長崎転任になったといわれていますが、本編で見たように藤吉郎は八太夫が町奉行所を追われてから七か月後に獄へ繋がれ、長崎転任の辞令が出る一年前にはすでに鬼籍の人となっていました。跡部甲斐守もまだ元清水付支配でくすぶっており、長崎奉行所の人事にまで介入できるような立場にはありませんでした。

 何よりも、八太夫自身が自らの『清々日記』で格式昇進(※1)を喜び、感謝の気持ちと意気込みを綴っています(※2)。ここに没落の暗さは微塵も感じられません。藤吉郎は、八太夫父子を町奉行所から先手組へ追ったことで、長崎転任のきっかけをつくりはしたものの、直接には関わっていないとみるべきでしょう。

 

 長崎奉行支配調役並東條八太夫の名前は、文久三(1863)年の武鑑にも見ることができます。しかし、元治・慶応の武鑑にはその名を見出すことができません。すでに七十に近かった八太夫は、その頃、次男の保太郎に家督を譲ったものと思われます。

 長男の八太郎は、天保十五(1844)年の内与力廃止の際に分家していましたが、父とともに長崎奉行所へ転任となった後、旗本役である調役本役を経て、元治元年正月には長崎奉行支配組頭勤方、翌慶応元(1865)年には同本役に昇進し、永々目見以上を仰渡されます。

 

 代々町方与力を勤めてきた八太夫一家は住み慣れた江戸を去り、遠く長崎の地に活躍の舞台を移しました。そして、八太郎の働きと昇進により、ついに旗本東條家が誕生します。父八太夫の喜びはいかばかりであったでしょうか。徳川幕府崩壊の三年前の出来事でした。

 

長崎奉行支配組頭として武鑑に載る旗本東條八太郎

(慶応三年版『大成武鑑』。国会図書館デジタルコレクション)

慶応三年武鑑


 

2.鈴木藤吉郎の悪名

 明治になって、忘れかけられていた鈴木藤吉郎の名が再び人々の話題へ上がるようになります。しかし、それらの多くは、藤吉郎にとっては不本意なものであったといえるでしょう。

 

(1)二代目松林伯圓の講談『安政三組盃』

 幕末から明治にかけて活躍した講談師の二代目松林伯圓は、講談『安政三組盃(あんせいみつぐみさかづき)』をつくって、これに悪役の鈴木藤吉郎を配し、話題を呼びます。伯圓の『安政三組盃』では、愛する小染を権柄尽くで我がものとし、一年半ものあいだ慰みものにした藤吉郎はやがて町奉行跡部能登守(※3)に身分詐称(※4)を見抜かれ、これをきっかけに、殺人など数々の悪事が露見して、破滅します。

 藤吉郎の名は今太閤としてではなく、『安政三組盃』に登場する悪人鈴木藤吉郎として、復活を果たしました。

 

(2)森鴎外の史伝『鈴木藤吉郎』

 講談はいうまでもなく娯楽であり、創作物であって、決して事実を再現するものではありません。しかし、そこから生み出されたイメージや感情が人々の記憶に染みとおっていくプロセスは現実そのものです。繰り返し再生産される悪名に、藤吉郎の縁戚の一人が『安政三組盃』の弁妄を正して、藤吉郎の雪冤をしたいと、文豪森鴎外に訴えました。これに動かされて、書かれたのが鴎外の史伝『鈴木藤吉郎』でした。

 

(3)篠田鉱造著「八〇 鈴木藤吉郎の話」、『幕末百話』

 明治35(1902)年、新聞記者の篠田鉱造は市井に生きた無名の古老たちの回顧談を拾い集め、報知新聞に連載しました。それらの話を一冊の本にまとめ、明治38年に出版したのが『幕末百話』です。この中に「鈴木藤吉郎の話」があります。話し手の古老は、藤吉郎を「慈善で義侠心のあった仁(かた)でした」、「おかかりに非道の仁(ひと)のみでない」と語り、人間味溢れる藤吉郎の粋なはからいを伝えています。

 

(4)日活の映画『安政三組盃』、『安政侠艶記』

 日活が戦前に製作した映画に、『安政三組盃』を原作にしたと思われる次の2作品があります。

 

 ・大正6(1917)年製作・公開『安政三組盃

 ・昭和3(1928)年製作・公開『安政侠艶記(あんせいきょうえんき)』(監督:辻吉郎)

 

 『安政侠艶記』はタイトルこそ違いますが、杉田大内蔵やお染といった登場人物を見るかぎり、『安政三組盃』の世界を題材としていることは明らかでしょう。鈴木藤吉郎の名は、大正、昭和の世になってもの銀幕の中に生きつづけていました。

 

 

※1)長崎奉行支配調役並は、躑躅間で家督相続が認められる譜代席であるため、抱入場の町方、先手組の与力を勤めてきた八太夫にとっては、家格の上昇を意味していました(用語集参照

※2)岡崎寛徳「幕府御家人東條為一の長崎道中日記」、『大倉山論集54』

※3)能登守は、藤吉郎の後ろ盾であり、上役でもあった跡部甲斐守が最初に町奉行になったとき(弘化元年九月〜翌二年三月)の受領名です。『安政三組盃』の世界では、藤吉郎と跡部奉行は、敵同士ということになります。

※4)藤吉郎の身分詐称とは、彼が被差別部落の出であることを隠して公儀の役人になったことをいいます。これは藤吉郎を捕らえた北町奉行所の隠密廻同心大八木四郎三郎の探索報告書によれば、事実ではありません。しかし『安政三組盃』の中では、それこそが藤吉郎の命取りとなります。不条理な身分制度を基盤とした江戸の社会では、身分の詐称は確かに違法行為であったかもしれませんが、それを今日の私たちが何の疑いも抱くことなく、罪状の一つに数え上げることは、そのこと自体が犯罪的であるというほかありません。創作の上でのことではありますが、それが誰であろうと、自身の出自によって非難されるいわれなどなく、恥じることでもなく、ましてやそれが罪であろうはずもありません。

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