更新記録と目次

  • 2020.11.05 Thursday
  • 00:09

(新着・更新記事)

勝手にリンク集 2020.11.5更新

大概順と中野又兵衛:二つのキャリア集団 2020.10.17加筆修正

本ブログを始めたきっかけ 2020.9.25公開

[用語集]官爵叙任次第 2020.9.11公開

町方同心の給与(暫定版) 2020.8.26公開

大相撲が帰ってくる 2020.7.10公開

組役:組与力同心の階級 2020.7.4公開

江戸北町奉行所 公式ウェブサイト 2020.5.19公開

定中役 2020.5.19公開

廻り方同心の大量処分 2020.5.3加筆修正

鎌倉殿の13人を演じるのは誰か 2020.4.22公開

 

(目次:■はカテゴリ、・は新着・更新記事)

町奉行所の組織と人事

町方同心の給与(暫定版) 2020.8.26公開

組役:組与力同心の階級 2020.7.4公開

定中役 2020.5.19公開

町奉行所の三大分課 2019.7.30加筆修正

花形「三廻り同心」

廻り方同心の大量処分 2020.5.3加筆修正

定廻り同心は本当に六人だったか 2017.11.2更新

隠密廻りのおじいちゃんたち 2017.11.2更新

町方与力同心の給与

町方与力同心の給与:与力篇(前) 2018.7.11加筆訂正

親分たちの生態

「廻り方手控」と御用飛脚 2019.8.1公開

勘定所の成り上り者

大概順と中野又兵衛:二つのキャリア集団 2020.10.17加筆修正

人と事件

遠山の金さんの実像 2018.9.23公開

今太閤と言われた鈴木藤吉郎 2018.4.19更新

用語集

官爵叙任次第 2020.9.11公開

データ 町奉行所の平面図、職員名簿など

データ集 2020.5.11更新

呉服橋門内の南町奉行所 2019年9月11日加筆修正

町奉行役宅 2018.3.22公開

天保十二丑年十月 北町奉行所住居向絵図面 2018.3.21更新

天保十三寅年二月 南町奉行所住居向絵図面 2018.3.21更新

雑感 2020.6.28更新

 

勝手にリンク集

  • 2020.11.05 Thursday
  • 00:06

 そのサイトを読むことが日本そのものを知ることでもあるといえるようなサイトを二つ。

 

家紋World

 家紋と名字の大百科事典!

 

千葉一族

 全国に根を張る千葉氏の大族譜。千葉一族を知ることは日本の歴史を知ることでもあります。

 

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 殊更にリンクの許可を求めるつもりもなく、ただお気に入りのサイトなどを勝手にご紹介し、リンクさせていただこうかと思っております。というわけで、

 

以下【勝手にリンク集】です。

 

■公共の機関

 何をおいてもまずはここ。

 国立国会図書館デジタルコレクション

 ここに『旧幕府引継書』が公開されていなければ、本ブログが始まることもなかったろうと思います。気の遠くなるようなデータ化の努力に、そしてそれらの膨大な情報資産を連綿と引き継いでくれた先人に感謝。

 

 ついでこちら。疑問が生じたら、まずは東京大学史料編纂所 データベースで検索あるのみ。

 

■個人

寛政譜書継御用出役相勤申候

 寛政譜以後の幕臣について調べるならこちら!

江戸町巡り

 江戸切絵図を片手に、江戸の町を歩き倒すのだ!

 

家紋World

 日本独自の意匠「家紋」と「名字」を知るならこちら!

千葉一族

 全国に根を張る千葉氏の大族譜。千葉一族を知ることは日本の歴史を知ることでもあります。

 

コインの散歩道

 貨幣について知りたいときはこちら!

時代劇の風景

 時代劇愛溢れるサイト。ロケ地データベースがすごい!

 

■商業系

戦国ヒストリー

 エンタメ系といえども、文献調査を大切にするスタンスには好感と共感を覚えます

 

(2020年11月5日更新)

 

本ブログを始めたきっかけ

  • 2020.09.25 Friday
  • 22:23

 もともと近世史(江戸時代)に関心の薄かった私がこのブログを始めたきっかけは、江戸学の祖・三田村鳶魚の最後の弟子といわれた故小川恭一氏の『江戸の旗本事典』(講談社)で、佐々木修輔(信濃守顕発)の立身出世の話を読んだことでした。将軍の寵愛など、よほど特殊な事情でもない限り、御家人から旗本に取り立てられることなどないと思っていた私にとって、修輔のエピソードは目から鱗という他なく、通常の人事ルートでそれが可能な勘定所と、その人事制度に大いに興味をもちました。

 それでその中核をなす評定所留役について調べはじめたのですが、残念ながら評定所の人事データはほとんど残っていませんでした。その一方で、町奉行所に関する膨大な文書が「旧幕府引継書」として維新政府に引き継がれ、いまも国立国会図書館に保管・公開されており、ほとんど残っていないと思っていた町方の組与力同心に関する情報も一部とはいえ、ある程度まとまった形で残っていることを知りました。そうやって、いろいろと調べていくうちに、一般に流布している話の中にも誤伝・誤解と思われるものが少なくないことを知り、ブログでささやかながらも発信していこうと思うにいたりました。

 その後、2018年末の病気でそれまで以上に更新ペースもダウンしてしまいましたが、ごくたまにでも思い出して、お越しいただき、お時間を過ごしていただければ幸いに思います。

 

 

大概順と中野又兵衛:二つのキャリア集団

  • 2020.09.14 Monday
  • 00:43

 旗本・御家人の役職を、ある時点での序列どおりに列挙したものを「大概順」といいます。

 幕府の組織を知る上では貴重かつ有用な人事資料といえますが、一方で幕府の人事制度はとても複雑である上に、人事は生ものですから、一見すると分かりづらく、前後の事情を知らないと戸惑うものもあります。

 

 例えば、「大概順」は「布衣以上(重き役人ともいわれる高級官僚)」「布衣以下御目見以上(一般的な旗本役)」「御目見以下(御家人役)」の三つのパートに分かれているのが普通ですが、天保年間の「布衣以上大概順」には、美濃郡代、西国郡代、飛騨郡代と続いた後で、「中野又兵衛(※1)」のように、唐突に個人名が出てくることもあります。医師でも儒者でもなさそうだし、布衣以上の高級官僚ですから職人や芸能者の名跡というわけでもなさそうです。

 じつは彼は元御目見以下の御家人出身者であるため、「寛政譜」に家名は載っていませんが、支配勘定を経て評定所留役勘定組頭(留役組頭)にまで昇り、永久旗本への昇進も果たし、いずれは勘定所を担って立つだろうとまで嘱望されていた新進気鋭の官僚でした。大概順掲載時点では、勘定組頭ながらも長年の精勤を賞されて、布衣の着用を許されていました。勘定奉行支配の役人で布衣の着用を許されるのは通常、勘定奉行以上の権勢を誇ったとまでいわれる勘定吟味役からですから、留役組頭にすぎない又兵衛が布衣の着用を許されていたのは例外的な人事といえました。周囲の信頼と期待の大きさが伺えるわけですが、それゆえに「布衣以上大概順」でも、(勘定組頭は布衣以下の序列となるため)末尾に又兵衛の名前のみが例外的に掲載されていたわけです。

 

 それほど将来を嘱望されていた又兵衛でしたが、大坂町奉行在任中に亡くなり、勘定奉行として江戸に戻ってくることはありませんでした。その又兵衛以上の勢いで出世の階段を駆け上がっていったのが幕末屈指の俊英とされる川路弥吉(聖謨)でした。又兵衛が留役組頭となった年に、同じ御家人出身者の弥吉は、(御目見以下の)留役助支配勘定から(御目見以上となる)留役勘定に昇進しています。その四年後、寺社奉行吟味物調役に転任した弥吉は、更にその四年後には勘定組頭格となり、有名な仙谷騒動を担当することになります。これが弥吉の大きな転機となりました。

 寺社奉行脇坂中務大輔(安董)の右腕として、仙谷騒動で辣腕を揮い、その名を馳せた川路弥吉は又兵衛より半月早く勘定吟味役となり、出世の階段を昇り詰めていきます。「布衣以下御目見以上大概順」で弥吉の名前が「勘定組頭格寺社奉行吟味物調役」として出てくるのは、仙谷騒動を足掛かりに大躍進を遂げる直前の弥吉が上昇過程の真っ只中で残した足跡ともいえるでしょう。寺社奉行吟味物調役は本来、勘定吟味方改役の次、留役勘定の上とされる場所(役職)で、諸役人中の序列は低いものの、御目見以下の御家人や、下級旗本の子弟が筆算吟味への及第を糸口に、出世の機会を得ようと集まってくる登竜門的なポジションで、当時の武家社会にあっては日本中の俊才が集う場所といえました。九州の地役人にすぎなかった父の夢を叶えんがため、貧乏御家人から身を起こし、立志伝中の人となった弥吉のような青年が、この頃の勘定所にはひしめき合っていたのです。また、そのような登竜門的なポスト(寺社奉行吟味物調役)の、三十そこそこの御家人出身者(弥吉)が留役組頭とほぼ同等のポジション(勘定組頭格)まで、比較的短期間のうちに正規の人事ルートで成り上がれたわけですから、当時の勘定所の勢いと可能性が伝わってきます。

 実際、幕府にも身分の固定による組織の硬直化を憂慮し、それを打破・是正すべく、新しい血を導入して、激変する社会情勢にも適応しうる人材を育成・確保していこうとする意図があったように思います。それは「重き御役人」の中核を成す評定所一座のメンバー(※2)や、その他の勘定所系人事からも伺うことができます。

 次期老中ともいうべき寺社奉行の面々。旗本の大多数を占める、小普請から番筋へ出る諸家のうち、もっとも家筋がよく、旧来からエリート層とされ、要職を独占しつづけてきた両番筋の出身者にほぼ独占されてきた町奉行。彼らに対し、勘定奉行やその支配下のポストは、両番筋以外の出身旗本や、御家人から成り上がった昇進家の人たちにも門戸が開かれ、選抜に選抜を重ねて、中野又兵衛や川路弥吉、久須美権兵衛(※3)や佐々木脩輔(※4)らの俊英を多数輩出しました(※5)

 

  嵶照峩據廚箸いΑ◆峪芦楼瞥茲痢弉畔舛物をいう、エリート軍人たち。目付を経て、遠国奉行や下三奉行に昇り、更には大目付、町奉行、勘定奉行までも昇りました。

 ◆峇定所」を中心とした、筆算(読み書き)能力や専門技能が前提となる成り上がり官僚たち。徒目付や火の番などからも支配勘定へと昇り、同寮経昇により、目見以上の場所(勘定等の役職)にも取り立てられ、勘定組頭、勘定吟味役をも経て、勘定奉行までも昇りました。

 

 徳川幕府はこの二つのキャリア集団が奏でるオーケストラの中で、番方と役方の折り合いをつけながら、かろうじて成り立っていました。

 

※1)中野石見守(長風)寛政譜書継御用出役相勤申候より

※2)評定所一座、すなわち三奉行(寺社奉行、町奉行、公事方勘定奉行)は、幕府の最高裁判所ともいうべき役割を果たしていただけではなく、とりわけ江戸後期・幕末期には幕閣の諮問機関として幕政上重要な位置を占めました。三奉行のうち、寺社奉行はよほどのことがない限り、後に老中となる人物であり、町奉行は両番筋出身者にほぼ独占された役方トップであるのに対し、勘定奉行は御家人や無筋の旗本をも含む幕臣全体から選び抜かれた俊英たちでした。事実上の次期老中(寺社奉行)、エリート旗本の現役トップ(町奉行)、全幕臣から選抜された俊英中の俊英(勘定奉行)の組み合わせである彼ら評定所一座の総意は幕府の意思というにふさわしく、大変重きをなしました。

※3)久須美佐渡守(祐明)。元御目見以下。寺社奉行吟味物調役、納戸頭、佐渡奉行、大坂町奉行などを経て、天保十五(1844)年十月二十四日、念願の公事方勘定奉行となりました。時に七十四歳のことでした。

※4)佐々木信濃守(顕発)。同前

※5)勘定所系人事の大きな利点の一つは『明良帯録』にいうところの「同寮経昇(内部昇格)」のしやすさにより、身分の壁を越えて、積極的な人材登用が可能な点にもありました。元々武士からは軽く見られがちな(誰もが重要性を認識しつつも、金銭に関わる職務(※6)への蔑視の意識ゆえに家格へのこだわりが少ない)役目の組織であったればこそといえるかもしれません。

※6)公事方においても、金公事(金銭債権およびそれに準ずるものに関する民事訴訟)が圧倒的多数を占めており、幕府は強く内済(和解)を推奨していました。

 

(2020年10月17日加筆修正)

 

[用語集]官爵叙任次第

  • 2020.09.11 Friday
  • 03:00

 まずは「五位の諸太夫」に叙任された人たち。一般の旗本にとっては、栄職といえました。

 

 『柳営秘鑑』によれば、「五位ニ被仰付面々」は次のとおり、

一 所謂万石以上城主之嫡子、無城ニ而も寺社奏者之嫡 若年寄之嫡 國持之次男或は三男

  御側衆 御留守居年寄 大御番頭 御書院番頭 御小姓組番頭 甲州詰小普請頭

  大目付 町奉行 御勘定奉行 御作事奉行 御普請奉行 小普請奉行 西丸御留守居

  京都町奉行 禁裏附 法皇御所附 仙洞附 伏見奉行近来万石以上 泉州堺政所 奈良奉行

  駿河御城代 久能奉行 勢州山田奉行 長崎奉行 日光奉行 御小姓衆無官も有之 大坂奉行

一 御三家竝松平加賀守家老五位被仰付、但御三家者六七人、内水戸は少し加賀守は四人、

  右衛門督殿(※1)附両人

 

 続いて「布衣の着用」を許された人たち。無位無官の旗本のうち、(六位相当とみなされた)

上級役職者にのみ、布衣の着用が許されました。

 

 同じく「布衣被仰付面々」は、

 小普請支配 御番頭 御書院番・御小姓組組頭 中奥御小姓 御小納戸 御旗奉行 御鑓奉行

 百人組頭 御持弓鉄炮頭 御先手 御鉄炮御用 御勘定吟味役 西丸裏御門番之頭

 二丸御留守居 定火消 御目付 御使番 御鷹匠頭 小十人頭 御徒頭 御船手

 一位様(※2)御用人 月光院様(※3)御用人 瑞春院様(※4)御用人 御廣敷御用人

 元方・払方御納戸頭 御腰物奉行 奥御祐筆組頭 浦賀奉行 佐渡奉行 二條御城番

 大坂御船手 駿河御城番 駿河町奉行 伊奈半左衛門(※5) 林百助(※6)

 竹姫君様(※7)御用人 養仙院様(※8)御用人 法心院殿(※9)御用人

 

 布衣以上の(布衣の着用を許された)役人を「重き御役人」ともいいました。また布衣以下の

(布衣の着用を許されていない)旗本のことは「平士」ともいいました

 

※1)徳川右衛門督(宗武)。八代将軍吉宗の次男で、田安徳川家の祖

※2)天英院。六代将軍家宣の正室

※3)六代将軍家宣の側室で、七代将軍家継の生母

※4)五代将軍綱吉の側室

※5)関東郡代伊奈忠逵

※6)林大学頭(信篤)の子

※7)浄岸院。八代将軍吉宗の養女

※8)五代将軍綱吉の養女

※9)六代将軍家宣の側室

 

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